参考資料744 | シフル・ド・ノストラダムス

シフル・ド・ノストラダムス

ノストラダムスの暗号解読

王の到来
「予言者たちの時代の王は、現在わたしたちが知っているような民主主義的な人種ではなかった。“庶民とのふれあい”などとんでもない話だったし、立憲君主制も存在しなかった。王は栄華と儀式の中心であり、国民を生かすも殺すも自由だった。王国は本質的には威信を競うための手段で、王の権勢が盛んになれば盛んになるほど、その威光は高まるのだった。玉座についた王にとって、領土は足台だったのである。
 キリストの生まれる五百年前、“主”に呼びかけられ、やがて現れるイスラエルの“王なる神”、“神なる救世主”について予言するように命じられて、ゼカリヤがどれほど驚いたかは容易に想像がつく。

 ダリウスの第二年八月、イドの孫でベレヤクの子である予言者ゼカリヤに、主の言葉が臨んだ。
ゼカリヤ書 1章1節

 その日、“霊感”によって受けとったメッセージをめぐって、人間なら仕方ないことであるが、ゼカリヤの胸のうちに激しい葛藤が生じたことは間違いない。なにしろ、古代の予言者の予言にはよくあることだったのだが、その啓示の内容は、実現するとはとても思えない代物だったのだ。念のために言っておくが、ゼカリヤが予言したのは、やがて到来する永遠で、全能で、無敵のイスラエルの王についてである。ゼカリヤは王の絢爛豪華な姿を目にしたのだろうか?きらびやかなパレードを、兵士たちがいっせいに武器を捧げる勇壮な礼を、王の着衣の素晴らしさを、王の威厳を見たのだろうか?とんでもない!

 娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ロバに乗って来る。雌ロバの子であるロバに乗って。
ゼカリヤ書 9章9節

 征服軍を率いる頼りがいのある指導者とはとても思えないではないか。栄華と儀式はどうなっているのだ?イスラエルの神なる王が、《高ぶることなく》?どういうことだ?ロバに乗ってだと?ばかばかしい!
 あっというまに五百年の歳月が流れ、ゼカリヤはとうの昔に死んでいる。彼がはじめて予言をしたときの王、ダリウスもいまは亡い。彼の予言は忘れ去られてはおらず、ユダヤ教の礼拝所で唱えられているが、いまでは名目的にしか信じられていない。現代人が建前で死者の復活を信じていると言うのとまったく同様だ。五百年というのは長い年月だ。人びとは希望を捨てている。
 だが、オリーブ山のふもとまでいっしょに行ってほしい。遠くから楽しげな歓声が聞こえる。大勢の人びとが、ロバの背でぶざまに揺られている男の前の道に、木の枝を投げている。この男こそナザレのイエスその人だ。目の前の出来事の記述を読んで、ゼカリヤの予言と比べてみてほしい。

〔弟子たちが〕ロバと子ロバを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」
マタイによる福音書 21章7~9節

“神なる救世主”が現れるときに乗っていると予言された、まさにその乗り物に乗ってナザレのイエスがエルサレムに入城したしたのは、はたして偶然なのだろうか?それとも、イエスがほんとうに人類史上最も謎にみちた人物であることの、さらなる証拠なのだろうか?」
「Ⅴ・ダンスタンの終末大予言(上)」ヴィクター・ダンスタン著・幸島研次訳より

感想
>“神なる救世主”が現れるときに乗っていると予言された、まさにその乗り物に乗ってナザレのイエスがエルサレムに入城したしたのは、はたして偶然なのだろうか?それとも、イエスがほんとうに人類史上最も謎にみちた人物であることの、さらなる証拠なのだろうか?

麻原彰晃みたいに真似をしたんだろう。普通の人だったら「彼の予言は忘れ去られてはおらず、ユダヤ教の礼拝所で唱えられているが、いまでは名目的にしか信じられていない。現代人が建前で死者の復活を信じていると言うのとまったく同様だ。五百年というのは長い年月だ。人びとは希望を捨てている」となるが、こんな事するような人達ですからね。

おまけ