参考資料687 | シフル・ド・ノストラダムス

シフル・ド・ノストラダムス

ノストラダムスの暗号解読

“神”が人類に通信する
「《したがって、類比により、かつてこの地球上に生存した生物はことごとく、創造主に最初に生命を吹きこまれた一個の原始形態から由来したものであろうと推測せざるをえない》
チャールズ・ダーウィン著『種の起源』

 まず最初に重要な疑問がある。古代の予言者が実際に予言能力を備え、人類の運命を左右する“見えざる手”が存在するとしても、では意思を持ち、しかもその意思を人類に伝えることのできる普遍的な知性が存在することを前提にしてしまっていいのだろうか?宇宙にそんな“存在”などあるのだろうか?
 わたしは“存在”とか“彼方の存在”という言葉を使う。なぜなら、“宇宙精神”を表す語のうち、長い年月のあいだに“神”の遠回しな代名詞になりさがらなかったものはほとんどないからである。本書の目的のためには、神―――伝統的な神学の型にあわせて形づくられた神―――が存在するという仮定を出発点にしたくはないのだ。本書を読むにあたっては先入観をすべて捨てていただきたい、というのが無理なお願いなのはよくわかっている。何ごとであれ先入観を持たずにとりくめる人は、普通に考えられているよりはるかに少ない。ほとんど皆無といっていいほどで、科学者の中にもめったにいない。けれども、本書の考察をいっそう楽しく読むために、しばらくのあいだできるだけ先入観を捨てるように努めてほしい、とお願いすることはできるだろう。わたしたちの周囲の現象の多様性を生みだした何かについては、もしほんとうに存在するなら、できるだけ単純な、型にははまっていない考え方をしたほうが望ましいからだ。
                          (中略)
 英国の天文・物理学者ジェイムズ・ジーンズ卿は、『神秘の宇宙』という著書の中でこう書いている。
《今日、物理畑の科学者のあいだでは、現実は非機械的なのではないかと考える者が、大多数になりかけている。宇宙が巨大な機械ではなく偉大な思考に見えはじめているのだ。もはや意識が物質界への闖入者だとは思えなくなっている。意識こそ物質界の創造主、支配者と呼ぶべきものなのかもしれない、とわれわれは考えはじめている。もちろん、人間の個人の意識について言っているのではなく、宇宙が思考の形で存在していると言っているのだ。宇宙が人間の意識と共通点のある“創造する力、あるいは管理する力”を備えていることが明らかになっているのである》
 著名な科学者にしてはずいぶん思いきったことを言ったものだ!
 だが、おそらく平均的な科学者は、至高の存在を信じるとも信じないとも断言しないだろう。頑固に不可知論の立場をとる人びとは、つまり確信を持てないでいる人びとは数多いのである。
 無神論の立場をとりながら知的でありつづけることには、もちろん、非常な困難がともなう。なぜなら、無神論をつらぬこうと思ったら、否定的証明をしなければならないからだ。対象領域が限られていてさえ、何かが存在しない、という証明をするのはとても難しいのに、無限の広がりを持つ時間と空間を相手にしなければならないのだから、不可能というほかない。
                          (中略)
 実際、もしも宇宙に人間の意識以外の意識が存在することを頑強に否定し、何もかもが偶然に起こるのだと主張するなら、科学者とは異なる見解を信じることになってしまう。なにしろジェームズ・ジーンズ卿も言うように、《今日・・・・現実は非機械的なのではないかと考える者が、大多数になりかけている。宇宙が巨大な機械ではなく偉大な思考に見えはじめているのだ。人間の意識と共通点のある“創造する力、あるいは管理する力”を宇宙が備えていることが明らかになっている》のだから。
 また、この章の冒頭に引用したように、チャールズ・ダーウィンは《・・・・創造主に最初に生命を吹きこまれた・・・・》と、造物主を信じていることを表明している。
 ダーウィンは不信心の元締めとみなされることが多かった。伝統的な信仰を踏みつけにしたというダーウィンに対する批判は明らかに的はずれである。広く行きわたっていた信仰をずたずたにしたのは、ほんとうは進化論を発表した彼ではないのだから。
 このふたりの言明や、そのほか多くの著名な科学者の信仰の表明を考えれば、わたしたちの「“彼方の存在”が人類と接触しようとしているのだろうか?」という疑問には、理にかなった根拠があるにちがいない。
 非常に多くの人びとが、いや、ほとんどひとり残らず、ときには自分の疑問に思いをめぐらせるのではないだろうか?どれほど簡素なものでも陶磁器のカップが偶然にできあがったものだと勘違いする人はいないだろう。ということは、わたしたちの惑星やそこに住む生物のように多様で複雑で素晴らしく形づくられたものが偶然にできあがったものだとみなすことは、わたしたちの知性に対するごまかしだと考えるのが当然ではないか。
 夜空にじっと目をこらして、考えてみてほしい。いちばん遠い星の向こうには何があるのだろう?さらにその向こうには?そのまたさらに向こうには?宇宙の果てはどうなっているのだろう?何もないのだろうか?そんなこと、想像の限界を超えている―――精神はそう悲鳴をあげるだろう。わたしたちは突然悟るのだ。肉体は宇宙の小さな部分に限定されているが、意識もまた驚くほど狭い部分に限定されていることを。」
「Ⅴ・ダンスタンの終末大予言(上)」ヴィクターダンスタン著・幸島研次訳より

感想
>無神論の立場をとりながら知的でありつづけることには、もちろん、非常な困難がともなう。なぜなら、無神論をつらぬこうと思ったら、否定的証明をしなければならないからだ。

別に「神がいない」証明なんていらないだろう。自然に考えたら神なんていないのだから。
http://www.fknews-2ch.net/archives/27038541.html(47と116と145が面白い。)
因みに、運命のようなものはあると思っている。(神がいるとしたら未来人としか考えられない。)

神がいると仮定すると、神が気に入る人間だけ集めて千年王国を作るだろう。そうなっていない所を見ると、神はいないというのが背理法的証明だが、この証明には抜け道がある。まだ、時が来ていないという事。結局、イエス・キリストの再臨を信じるか信じないかに帰着させる事も可能だろう。

「まず次のことを知るべきである。終りの時にあざける者たちが、あざけりながら出てきて、自分の欲情のままに生活し、「主の来臨の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから、すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、変ってはいない」と言うであろう。すなわち、彼らはこのことを認めようとはしない。古い昔に天が存在し、地は神の言によって、水がもとになり、また、水によって成ったのであるが、その時の世界は、御言により水でおおわれて滅んでしまった。しかし、今の天と地とは、同じ御言によって保存され、不信仰な人々がさばかれ、滅ぼさるべき日に火で焼かれる時まで、そのまま保たれているのである。愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。このように、これらはみなくずれ落ちていくものであるから、神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、極力、きよく信心深い行いをしていなければならない。その日には、天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう。しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。」
新約聖書「ペテロの第二の手紙」第3章3節~13節

おまけ