参考資料38 | シフル・ド・ノストラダムス

シフル・ド・ノストラダムス

ノストラダムスの暗号解読

「オウム真理教のキーワードが「カルマ」や「タントラ」などの用語だとすれば、オウム真理教に対して批判的な論調の合い言葉は「反社会性」である。これに対して、オウム真理教擁護の論陣を張る論客も出てきた。その代表的存在が、宗教学者の中沢新一氏だ。中沢氏はみずからオウム真理教の「弁護人」と称し、さまざまな機会をとらえて弁護活動を展開している。「そりゃ、オウム真理教は反社会的かもしれないけど、あらゆる宗教で反社会的でない宗教なんてあり得ないんだよね。人間の欲やシットがつくる社会なるものに絶対的な価値をおかないところから宗教が始まるわけでしょ。それをやめて社会と添い寝するようになったら、もう宗教なんて言えないよ。ところが今やマスコミはこぞって社会のスタンダードと添い寝する存在となりつつあるでしょ」(「クレア」1989年12月号)これには麻原氏も意を強くしたらしい。みずから、「オウム真理教は、もともと反社会的な存在なのです」「「狂気」と言われているものにつきましても、はっきり私たちは狂気の悟りをめざしているのだ、と語ってきたのです」と居直るようになる。中沢氏はさらにエールを送る。「現代社会は、あらゆる手段をつかって、人間に人間の世界の外部にあることは見せないでいようとしているでしょう。これはもう、何かの陰謀です。宗教がそのニヒリズムを突き破って、生命と意識の根源にたどりつこうとするならば、どうしてもそれは反社会性や、狂気としての性格を帯びるようになるのではないでしょうか。ですから、その点については、オウム真理教の主張していることは、基本的に、まちがっていないと思います」(「SPA!」1989年12月6日号)だが、オウム真理教は本当に「反社会的」存在なのだろうか。社会の枠組みや基準、常識といったものに背き、あるいは真っ向から対立することを「反社会的」とみなすなら、オウム真理教の場合はまだまだ社会に対する未練たっぷり。社会に背を向けて生きるだけの力量もない。社会と融和することもできず、さりとて「反社会的」になりきることもできない、中途半端な状態だと私の目には映る。オウム真理教の訴訟好き、法律好きはよく知られている。法律というのは、社会の秩序や基準を定めた規範である。裁判所は、その法律に基づいて国家の司法権が発動される場。法律だの裁判所だのといった存在は、本来もっとも「社会的」なもののはず。それをオウム真理教は真っ先に、そして最大限に活用する。もちろん、法律はどんな人間や組織にも平等に適用され、「反社会性」を標榜する団体でも、その権利は等しく擁護されるべきである。しかし、オウム真理教の場合は、話し合いとか説得といった他の手段に頼むことなく、すぐに法律を振り回すところに特色がある。フジテレビのインタビューで、麻原氏は、次のように答えている。「で、もしそれ(オウム真理教の修行方法)が駄目であれば、法でやっぱり血を飲んじゃいけないとか、あるいは髪の毛を煎じて飲んじゃいけないとかいう規制をなさってもよろしいんじゃないでしょうか。あるいは、二十歳でも出家をしていけないとかね。あるいは、信仰・宗教の自由より、その数名の親子の情のほうが大切なんだというような法的な改正をなさったら、それはそれで日本国人である以上は従わなきゃならないと。そう考えているわけですね」「反社会的」集団にしては、いやに遵法精神にあふれた発言。だが裏を返せば、法律上明文で禁止されていないことは、何をやってもいい、ということにもなる。オウムの活動に文句をつけたかったら、法律を改正してみろ、できないだろう。そんな居直り、傲慢さがチラついている。・・・・自己の正当性を主張するために、すぐれて社会的存在である法律を最大の武器として頼みにするオウム真理教。その彼らが、みずからを「反社会的」と称するのは奇異な感じを否めない。・・・・「反社会的」を自認するなら、なにゆえ東大や京大といった世俗的な権威に頼るのだろうか(例えば、麻原氏のDNAは特別な効能があることが、京大医学部の研究で明らかになったそうだ(大学側は否定している))。その他マスコミにこだわったり、異常なまでに宗教法人の認証に執着したり・・・・。こうした麻原氏の行動には、極めて生臭い、世俗的な野心がここかしこにちらついている。「反社会」どころか、本音は今の社会の枠組みの中で評価されたい、影響力をもちたいのだ。にもかかわらず、社会は思う通りに自分を評価してくれない。そんな苛立ちを正当化する格好のことばが「反社会性」なのである。また、法律の矛先が自分たちに向けられた時の彼らの対応というのも、独特である。「我々が抗議に行くと、連中はなんというと思います?「バカヤロー」「コノヤロー」「テメー」「カエレ」。この四語ですよ。他にことばを知らないのかと思うくらい、ひたすらこの四語を我々に浴びせかける。責任者と話そうとしても、「いない」の一言。こんな連中と、どうやって一緒に暮らしていけますか?住民は安心して住めませんよ。信教の自由―――それはわかります。でも私たちの平和に生活する権利はどうしてくれるんですか。自分たちの青春をかけて開拓した土地が、連中に乗っとられるのを黙って見てろっていったって、そりゃ無理ですよ」(山梨県上九一色村住民)オウム真理教は、みずからの権利には敏感だが、他者の権利や痛み、それにみずからに課せられた義務については、あまりに無頓着である。しかも彼らは、自分の思うようにならない原因を他者に求める傾向が強い。みずからを顧みることがない点は、まるで駄々っ子と同じだ。子どものわがままを、社会にそのままもち込もうとするから、摩擦が起きる。図体と口は大人だが、精神面では依然としてガキ大将。そんな麻原氏は、社会の枠組みを越えるような素振りをして、結局のところ社会に甘えているのにすぎない。」
多分「救世主の野望」江川紹子著からの抜粋

おまけ 取り返しのつかない事ってあるよね。(これは中途半端なマニアである私は知らなかった。)