参考資料2の続き | シフル・ド・ノストラダムス

シフル・ド・ノストラダムス

ノストラダムスの暗号解読

まだ、納得しないと思いますので、多少の補足を付け加えます。一番最初に書いた詩の2行目と4行目に、「もっと魅力的な別のもの」と「もっと魅惑的な贈り物と言語」という言葉がありますが、「もっと魅力的な別のもの」の「魅力的な」は、原文では「seductive」。「もっと魅惑的な贈り物と言語」の「魅惑的な」は原文で「attractive」。「attractive」は辞書で引くと「人を引きつける、魅力ある」で「seductive」は辞書にないのですが、「attractive」「attraction」が形容詞・名詞の関係から「seductive」は「seduction」(eの上のアクサン・テギュ省略)を無理に形容詞にしたもの。「seduction」(eの上のアクサン・テギュ省略)の意味は「誘惑、魅了、魅惑、魅力」。さらに古語で、「悪への誘惑」もあるので、「seductive」は「魅惑的な」と訳したいと思います。つまり、「オウム真理教」=「もっと魅惑的な別のもの」となり、ますます「別のもの」とは異なる気がします。それどころか、「悪への誘惑をする別のもの」と訳すと、自然に連想されるのが「黙示録の獣」。


ここからは、少し世間一般の常識から逸脱したモードで話をしたいと思いますので、小説でも読むような気持ちで読んで下さい。ここで、麻原彰晃を「黙示録の獣」と仮定します。そして、先程の詩の解釈をもう一度考えてみます。


オウム真理教が世間に登場した後

ソ連共産党が崩壊するのを人々は見るだろう

大金とオウム真理教の布教活動によって

ロシアのエリツィン大統領は最初の失敗者となるだろう


「エリツィン大統領は最初の失敗者」という事は、2人目以降がいるという事で、それはすなわち、麻原彰晃がテロによる人質交換や脱獄といった手段で出て来るのではなくて、無罪判決を勝ち取って出て来るという事を意味しています。ここで、「ヨハネの黙示録」の獣について語った部分を抜き書きしてみますと、「それには角が10本、頭が7つあり、それらの角には10の冠があって、頭には神を汚す名が付いていた。」「その頭の1つが死ぬほどの傷を受けたが、その致命的な傷も治ってしまった。」「耳のある者は聞くが良い。とりことなるべき者はとりこになっていく。」


「それには角が10本、頭が7つあり」なんて、そんな人間いる訳ないよと言われそうですが、オウム真理教の省庁制度を考えてみますと、全部で20近くあったそうなので、象徴としては、そんなにはかけ離れていないと思います。「頭には神を汚す名が付いていた。」とありますが、麻原彰晃は最終解脱者とか現代の仏陀とか呼ばれていたので、まさに、「神を汚す名が付いていた」と言えるでしょう。「その頭の1つが死ぬほどの傷を受けたが、その致命的な傷も治ってしまった。」とは、村井秀夫・元科学技術省トップが殺されて、自らも警察に捕まった事だと思います。(まさに致命的。しかしその傷も治ってしまったというのが気になります。)「耳のある者は聞くが良い。とりことなるべき者はとりこになっていく。」これは、読んで字の如く、今の、さらにこれからのオウム真理教信者の事だと思います。


ところで、国松元警察庁長官狙撃事件の真犯人はどうなったのでしょう。元オウム信者の警察官が犯人とされていましたが、結局、捨てたとされる川から拳銃は発見されなかったし、もし、本当にオウムによる犯行だとしたら、大抵の事件に関与していた諜報省トップの井上嘉浩が、こんな大事な事件に関与していないのは変である。故に、この事件は、オウム以外の組織によるものではないかとの疑惑が出て来ます。そこで、素直に思い浮かぶのが、事件後の現場検証で見つけられた北朝鮮のバッチと外国製の煙草の吸殻。特殊工作員が、そんなへまをするわけがないと言われそうですが、オウムの手による偽装だとしたら、北朝鮮に罪をなすり付けるために、どこからか北朝鮮のバッチを手に入れて、さらに外国製の煙草を何本か吸ってそこに置いておいたと考えるしかありません。暴力団や右翼や左翼に罪をなすり付けるなら話も通ると思いますが、相手を国家に取るとはとても思えません。それに、そんな事を諜報省トップの井上嘉浩が知らされてないとは考えられないので、やはり素直に、北朝鮮の特殊工作員によるものだと仮定します。そう仮定すると、少し離れた距離から4発も正確に撃ち込み、見事に逃走した事も納得がいきます。では、何のために北朝鮮がそんな事をしたのか?


これは、単純に金でロシアから頼まれたと考えます。まだ、この事件が起きた時点では、ロシアがオウムに軍備を金で売った事は、はっきりとはしていなかったので、警察庁長官を殺す事によって捜査を混乱させようとした。さらに、村井秀夫・元科学技術省トップ刺殺事件もすっきりしなかった感があります。これも、ロシアによる口封じの可能性があると思います。


話を元に戻して結論を付けると、麻原彰晃は「黙示録の獣」で、ロシアは旧約聖書のエゼキエル書に出て来る「メセクとトバルの大君であるマゴクの地のゴク」。勝手な事を言うなと言われそうですが、もし、麻原彰晃が「黙示録の獣」だったら、オウム真理教の信者は他人を勧誘する立場にあるのだから、特に広報部の人間や広報副部長として、あなたはどう責任を取るつもりですか。それとも、「やっぱり尊師は無罪だった。」と喜ぶつもりですか?以前に、路上でオウム真理教の信者と話をした事があるのですが、その時僕は、「オウム真理教が解散させられたらどうするんですか?自分一人でも真理とは何かを探し求めますか?」と尋ねたんです。何度聞いても、はっきりとは答えてくれなかったのですが。結局、こんな状態になってもオウム真理教から離れられないのは、自我意識が非常に強いからでしょう。


「人を救うために超能力が欲しいと言って私のもとにやって来る人がいる。だが、これも動機は不純なのだ。我々は、人を救うと考える事にたまらない快感を感じるのだ。救われるより救う事の方が嬉しいのだ。それは、自我をくすぐるからだ。人のために救おうとしたり説教をしたりする者は誰もいない。自分では人類のためだとか、人のためだとか自惚れているが、全てはつまらない自我のためなのだ。」


だそうです。何だか後半は失礼な事ばかり言ってしまったので、最後は客観的に麻原彰晃が救世主ではない理由を述べて終わりにしたいと思います。


旧約聖書のダニエル書に「エルサレムを建て直せという命令が出てから、メシアなるひとりの君が来られるまで7週と62週あることを知り、かつ悟りなさい。」とあるのですが、「エルサレムを建て直せ」をイスラエル建国と取ると、1948年5月15日。旧約聖書では、「神の一日は一年だ」と定められているそうですので、7週とは49年を指す事になります。よって、メシアなるひとりの君が来られる日付けは、1997年5月15日という事になります。世界のどこかでそういう人物が出たかどうかは知りませんが、少なくとも、東京拘置所の中にいた麻原彰晃でない事だけは確かだと思います。因みに、62週後(434年後)にいなくなるそうです。


現在の感想

麻原彰晃が無罪になるなんて事は100%あり得ないので、バカな事を書いたと思うが、少々気になる事は、3章94番の詩は、500年以上ではなく500年未満とも読めてしまう事(2055年までに終わりの日が来るかもしれないという事)と釈迦入滅2500年後が2020年±20年ぐらいという事と聖書の予言と「ノストラダムスの予言」では明らかに「星の衝突」(エドガー・ケイシーの予言では「彼の星」(主の星))を匂わせていて、実際に2036年に小惑星「アポフィス」が地球に衝突する確率が「450分の1」かもしれないという事。そこで、ノストラダムスの二セの詩に「世界の終わり」の詩というのがあるらしいので、それによると2038年らしい。パニックから2年後と考えると、奇妙な一致とも思える。二セの詩といっても、誤訳でもシンクロ二シティーを起こす場合がある(ノストラダムスの個人的能力というより「神の計画」と考えている)ので侮れない(聖書でいう所の偽典)。


ちょっとオカルトっぽくなってしまったので、少し言い訳すると、予言が当たると仮定しての話は、数学的帰納法的にn=kの時に成り立つと仮定してn=k+1の時にも成り立つかどうか検討しているだけで、信奉者側という訳ではない。


参考資料

http://www.afpbb.com/article/environment-science-it/2378848/2838474

http://www.afpbb.com/article/environment-science-it/science-technology/2379895/2845375
http://www42.atwiki.jp/nostradamus/pages/571.html


訂正

「数学的帰納法的」=>「数学的帰納法・的」

「数学的帰納的」だと、「数学的に帰納法的に」と受け取られてしまい、「数学的に実験的に」と思われる可能性がある事に気が付いた。


一応、「数学的帰納法」の解説

例えば、「2n-1」という式が奇数列を表すという事は、n=1,2,3・・・・と代入して行けば2n-1=1,3,5・・・・となるので明らかだが、無限の彼方でこの配列が狂い偶数が出現するかもしれない。これを実験的(帰納法的)に証明する事は出来ない(無限まで代入する事はコンピューターでも出来ないから)。そこで、数学的帰納法である。

まず、n=1の時成り立つ事を確認して、次にn=kの時成り立つと仮定して、n=k+1の時も成り立つ事を証明する。そうする事によって、n=1,2,3・・・・∞,まで代入して確かめたのと同じ効果を発揮する(kを任意の数に置き換えてみれば分かるはず)。実際に示すと、

(ⅰ)n=1の時、2×1-1=1より奇数なので成り立つ。

(ⅱ)n=kの時成り立つと仮定すると、2k-1

   n=k+1の時、2(k+1)-1=2k+1 これは、2k-1の次の項を意味しているので、n=k+1の時も成り立つ。

(ⅰ)(ⅱ)より数学的帰納法により「2n-1」は奇数列を表す。Q.E.D.


実際は、「2n-1」という式は簡単なので、無限の彼方でも配列が狂う事のない証明は、数学的帰納法を使わなくても、「2n」が偶数列で「2n-1」はその1つ前なので奇数列である事は自明とするが、ちょっと複雑な式では数学的帰納法を使わないと無理(数学の全ての証明を演繹法(論理的な証明)で行う事は無理)。


補足

「kを任意の数に置き換えてみれば分かるはず」という所は不親切だった。n=kの時成り立つと仮定してn=k+1の時成り立ち、n=1の時成り立つという事はn=2の時成り立ち、n=2の時成り立つという事はn=3の時も成り立つという事で、以後同様にn→∞まで成り立つという事である。よって、n=1,2,3・・・・∞,まで代入して確かめたのと同じ事。