今日は、明智光秀について語らせていただきます。 よろしくお願いいたします。


明智光秀は、戦国時代~安土桃山時代の戦国武将です。


本姓は源氏  家系は清和源氏の摂津源氏で、美濃源氏土岐氏支流です。(明智氏)


仮名は十兵衛 雅号は咲庵です。


妻は、妻木(苗字)その間には、嫡男・光慶(十五郎)、細川忠興室・細川ガラシャなどがいます。


織田信長の家臣になった後は、永禄12年頃から木下藤吉郎秀吉(羽柴)らと共に織田氏


支配下の京都近辺の政務に当たったとされています。


元亀2年比叡山焼討ちで武功を上げて、近江国に坂本城を築いた。


天正3年に、惟任(これとう)も姓 従5位下 日向守の官職を与えられ、惟任日向守と称しました。


城主となった日向守光秀は、石山本願寺や荒木村重・松永久秀(有岡城の戦い・信貴山城の戦い)


などで近畿各地を転戦しつつ、丹波国(黒井城の戦い)を担当し、天正7年までに平定しました。


この功績により、これまでの近江国志賀郡+丹波一国計34万石を与えられ


丹波亀山城・横山城・周山城を築城しました。


また丹波一国拝領と同時に丹後の長岡藤孝(細川)、大和の筒井順慶ら近畿地方の織田大名の


総合指揮権も与えられました。


本能寺の変


天正10年早朝、羽柴秀吉の毛利征伐の支援を命じられて


出陣(進軍)の途中・桂川を渡り京へ入る段階で、光秀は有名な台詞「敵は本能寺にあり」


といい、二手に分かれた光秀軍は、織田信長がいる本能寺を包囲しました。


この時の、)明智軍は1万3000だといわれています。


に対して織田信長は、100人足らずの兵に守られていた織田信長は奮戦しましたが、やがて


本能寺に火を放ち自害しました。(このとき織田信長が言い残したのは是非もなし・人間50年下天の内を


くらぶれば 夢幻のごとくなり 人間生を受け滅せぬもののあるべきか)などを言い残したといわれています。


光秀は、織田信長を襲った後、織田信忠・京都所司代の村井などを討ち取った。


織田信長を討ち取った光秀は、その後羽柴秀吉(後 豊臣秀吉)が山崎(山崎の戦い)で討ち取った。


この事は、光秀三日天下といわれています。


この時の両軍の兵士数は秀吉軍2万4000・明智軍1万2000といわれています。


光秀は、戦から逃れ坂本城に逃れる途中農民の竹槍にやられたとされています。


今日は、明智光秀の事を語りました。


次回は、七本槍の一人加藤清正について語ります。 お楽しみに~


ではまた