《2022年》のブログは、2つのテーマを予定しています |   「生きる権利、生きる自由、いのち」が危ない!

  「生きる権利、生きる自由、いのち」が危ない!

突きつめれば「命どぅ宝」!
【新】ツイッター・アカウント☞https://twitter.com/IvanFoucault
徳冨蘆花「謀叛論」を再発見してたら、
「ソクラテスの弁明」が、なぜ好きなのか、最近になって納得し始めた今日この頃です。

THE BLUE HEARTS "青空 (Aozora) Blue Sky"
Piano Guitar English lyrics Japanese Human voice

――――――――――――――――――
忌野清志郎 with 矢野顕子「ひとつだけ」
雑踏 忌野清志郎withBEGIN

HIS - 500miles



※引用原文中における傍点での強調は、
引用文中は〈〉囲みで表示。
また、引用文中の太字・色彩・下線での強調は、
引用者によるもの。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

“ 〔この世の中には〕2つの「人種」しかありません。
誠実な人間という人種と、不誠実な人間という人種です。”
(ヴィクトール・E・フランクル【著】 /山田邦男・松田美佳【訳】
『苦悩する人間』
2004年、春秋社、93頁)

――――――――――――――

“利己主義と自己愛とは、
同じどころか、まったく正反対である。
利己的な人は、
自分を愛しすぎるのではなく、
愛さなすぎるのである。
いや実際は〔利己的な人〕は、
自分を憎んでいる
のだ。”
(エーリッヒ・フロム【著】/鈴木昌【訳】
『愛するということ』
1991年、紀伊国屋出版、97頁)

――――――――――――――――――

“「愛しあっている」二人が
ほかの人には眼もくれないということは よくある。
じつは、
彼らの愛は 利己主義が二倍になったものにすぎない
彼らはたがいに相手に自分を同一化し、
一人を二人に増やすことによって孤立の問題を解決しようとする

それによって彼らは孤独を克服したと感じるが、
彼らは彼ら以外のすべての人びとから孤立しているので、
依然として たがいに孤立しており

自分自身からも疎外されている

彼らが味わう一体感は錯覚にすぎないのだ。”
(エーリッヒ・フロム【著】/鈴木昌【訳】
『愛するということ』
1991年、紀伊国屋出版、89頁)

―――――――――――――――――――――

他人を愛せない者は、
身内も愛すること出来ない
。”
(エーリッヒ・フロム【著】/鈴木昌【訳】
『愛するということ』
1991年、紀伊国屋出版、192頁)

――――――――――――――

“スピノザによれば、
能動性、理性、自由、福利、喜び、自己完成
は、
お互いに結びついていて切り離すことができない
――受動性、非合理性、束縛、悲しみ、無力、
そして人間性の要請に反する努力
が、そうであるように
(『エチカ』4、付録2、3、5。定理40,42)

(中略)

 私〔エーリッヒ・フロム〕の知るかぎり、
スピノザは
精神面での健康と病気が、それぞれ
正しい生き方と間違った生き方の結果であることを
自明のこととした、最初の近代思想家である。

 スピノザにとっては、
精神的健康は結局 正しい生き方の現われであり、
精神的病気は、
人間性の要求に従って生きていないこと
の徴候
である。
しかし、
もし〈貪欲な〉人物が 金と所有物のことばかり考え、
野心的な人物が 名声のことばかり考えた
としても、
人は彼らを精神異常とは考えず、
ただ不愉快に思うだけである。
概して 人は彼らを軽蔑する。
しかし、〈実際には〉、
貪欲や野心などは、精神異常の形態
なのである。
ふつう人はそれらを〈病気とは考えないけれども」
(『エチカ』4、命題44)。
私たちの時代の考え方とはほど遠いこの所説において、
スピノザは
人間性の要求対応しない情熱を病的とみなしている。
実際、彼はそれら精神異常の一形態とさえ呼んでいるのである。

 スピノザの能動性受動性の概念は、
産業社会に対するラディカルな批判
である。
主として金や所有や名声への貪欲にかりたてられる人物
正常でよく順応している、という今日の信条とは対照的に、
彼らはスピノザにとって、受動的で根本的に病んでいるとみなされる。”
(エーリッヒ・フロム【著】/佐野哲郎【訳】
『生きるということ(新装版)』
2020年、紀伊国屋書店、135-136頁)

―――――――――――

“愛の本質について
先に述べたことにしたがえば、
愛を達成するための基本的条件は、〈ナルシシズム克服〉である。
ナルシスズム傾向のつよい人は、
自分の内に存在するものだけを現実として経験する。
外界の現象は
それ自体では意味をもたず、
自分にとって有益か危険かという観点からのみ経験される
のだ。

 ナルシシズムの反対の極にあるのが客観性である。
これは、
人間や事物をありのままに見て、
その客観的なイメージを、
自分の欲望と恐怖によってつくりあげられたイメージと
区別する能力である。
(引用者中略)

 客観的に考える能力、それが理性である。
理性の基盤となる感情面の姿勢は
〈謙虚さ〉である。
(引用者中略)

 このことを、
私たちが論じている愛の技術の習練に
あてはめてみると、こういうことになる。
人を愛するためには、
ある程度ナルシシズムから抜け出ていることが
必要である。
謙虚さと客観性を
理性を育てなければならない。
自分の生活全体を
この目的に捧げなければならない。”
(エーリッヒ・フロム【著】/鈴木昌【訳】
『愛するということ』)

―――――――――――――――――――

 道徳の根本概念は
我と物でなく、我と汝
である。

 道徳はすべて我と汝の関係の認められるところに成立する
そのことは
人間を
単に他のとの間柄においてのみ考えて、自己自身として考えない
ということではない。
我々が人格であるのは、
自己が自己に対する関係においてであって、
他に対する関係においてではない といわれるであろう。
しかし人間が
このように自己自身において道徳的存在である ということも、
自己が自己に対して我と汝の関係に立ち得る 
ということに基づいている。
私は私自身に対して汝と呼び掛ける。
「汝為すべし」という道徳的命令は、
私が私自身に対して汝と呼び掛ける
のである、
そこに道徳の自律性がある。
道徳を単に自他の間柄においてのみ考えるのでは、
道徳の自律性は考えられないであろう。
道徳的に自覚的であるということは、
自己が自己に、自己を汝として対することである。
カントが
良心を、主体の主体に対する関係として、法廷に譬え、
自己のうちに訴えられたものと その裁判官であるものとを
考えたのも、かような関係を示すものにほかならない。
良心的とは道徳的に自覚的である
 ということである。
過去の私、未来の私、否、現在の私も、
私は これを汝として これに対することができる。
かように
自己が自己に、過去現在未来のすべてにおける自己に、
これを汝として これに対し得る ということは、
人間存在の超越性に基づいている。
超越なしには道徳は存しない。
自己が自己に、自己を汝として対し得る自覚的存在として人間は
人格であり、
かような人格にとって他の人間も真に汝であるのである。
汝が真に汝として我に対するためには
我が真に我でなければならぬ


 ところで「汝為すべし」という道徳的自覚は、
自己が自己に、自己を汝として呼び掛けることであるが、
それは同意に逆に、
かように呼びかけるものが むしろ汝であり、
自己が汝に呼び掛けるのではなくて、
汝から自己が呼びかけること
である。”
(三木清【著】
『哲学入門』
1940年、岩波新書、168-170頁)

―――――――――――――――――

“責任の倫理は
行為の結果を重んずるのであるが、
それは単に結果さえ善ければ行為は善いと考える
いわゆる結果説
であってはならぬ。
結果説には
人格的な見方欠けている
それは自己をも他をも人格として認めないところから
却って最も無責任なことともなり得る
のである。
人格とは或る内面的なものであり、内面性なくして人格はない
結果を考えることを
他律的として排斥するカントの倫理学において重んぜられたのは、
人格の内面性
である。
人格は自由なもの、自律的なものであり、
かようなものとして人格は
真に責任の主体であることができる。
我々は 我々の行為において
社会に対して責任をもっていると共に
自己自身に対して責任をもっている


自己の人格を尊重する ということは、
自己が自己に対して責任をもつ ということでなければならぬ。
倫理は心情の倫理と責任の倫理との統一である。”
(三木清【著】
『哲学入門』
1940年、岩波新書、206-207頁)

――――――――――――――

“…愛こそ存在の意味であると主張するなら、
それと同時に、
愛とは つねに汝への愛であることも
確認しておかなければなりません。
愛することができるものは、いつも具体的なものだけ
であって、
抽象的なものを愛することはできないのです。
価値そのものとか価値それ自体といったものを
愛することはできません。
価値を愛することができるのは、
それが誰かに、誰かの人格に「属して」いる限りにおいて
なのです
(その場合、この人格は、
人間的な人格でなくてもまったくかまいません。
超人的な人格、例えば神であっても かまわないのです)。
人格も具体的なものです。
いや、もっとも具体的なものです。
人格の具体性は、愛する人によって、
具体的な特徴を通じて捉えられます

けれども、愛されるのは、
そのような具体的な特徴、
その人の心身的性格ではありません
(精神的人格こそ、その性格の担い手なのです)。
というのは、
こうしたすべてのもの、
それぞれの特徴とか性格特徴といったものは、
多かれ少なかれ
汎通的【ウビクテール】(一般的)なものですが、
人格そのものはすべて一回的かつ唯一的だからです。
そして、
人格が一回性と唯一性において経験されるときに初めて、
その人格は愛されるのです。
身体的特性とか心理的特徴にのみ目を向けている限り、
それは、愛する態度ではなく、恋する態度なのです。
他者を愛する姿勢の特徴は、
外的および内的な現われを通して、
そこに啓示されている精神的人格をめざす
ということにあるのです。
精神的人格に対してのみ
私は汝【ドゥ―〔Du〕】と言うことができるのです。
価値それ自体、つまり何かあるものに対しても、
また、誰かに「属する」特徴、
例えば
髪や目の色、鼻の形、話し方や笑い方などといったもの、
――こうしたすべてのものが
どれほど刺激的で魅力的であっても――、
そういったものに対して汝【ドゥー】と言うことはできないのです。

 それゆえ、
愛は汝【ドゥー】への関係を前提〔に〕しています

(ヴィクトール・E・フランクル【著】/
山田邦男・松田美佳【訳】
『苦悩する人間』
春秋社、59-61頁)

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“ルートヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインも
「『日記1914-1916年』の中で
神を信じるとは
人生に意味があることに気づくこと
である」
と述べている。
(引用者中略)

それは、
私たちの最も親密な自己対話の相手としての神〉を
定義するなら、
おそらくもっとも的を得ているであろうという主張である。
それが実際に意味するのは、
人が極度の孤独にあり、
したがってまた
自分自身の対して極限的に誠実であるとき、
その人が考え、
「心の言葉」で話すことは
すべて本来的には神に向かって話している
のだ
ということである。
(「わが心は汝に語る(tibi cor meum laoquitur)」)”

(ヴィクトール・E・フランクル【著】/山田邦男・松田美佳【訳】
『苦悩する人間』
2004年、春秋社、166-167頁)

―――――――――――――

【ピンハス・ラピーデ】
“「…あなた〔ヴィクトール・フランクル〕の本を読むときに、
わたし〔ラピーデ〕のうちので共に震えるものはいったい何なのかと、
わたしはみずからに問います。
ここでかき乱されるのは、
わたしに高貴な人間性を与えるのは、
わたしのうちの神的な火花、神の息吹
ではないでしょうか?
そのようにわたしは思います。

 神はわたしの内におられ、
わたしをまったき人間にすること
を欲しておられます

しかし
わたしはまだ、まったき人間ではありません。
わたしたちは
なぜ神を天上の星々のあいだに、
あらゆる可能な何々主義のうちに、
すべての外界において探すのでしょうか。
たしかに神はそこにおられますが、
なぜ神を
最も深いわたしたちの最内奥において探さないのでしょうか。
そこにおいて神は
あなたが良心と名づけているひとつの声を持っておられ、
そこにおいて神は
祈りをわたしのうちに産み出し、
その祈りがわたしに祈らせます。
そこにおいて神は祈りへの衝動を目覚めさせ、
そこにおいて神はわたしに愛することを命じ、
その結果わたしは我(Ich)に成ることができます。
もしこの神が火花として
わたしのうちにすでにくすぶっており、
わたしを通して燃えあがるようにされることを
待っているのだけ
だとすれば、
何のために遠くへ さまよいに行く必要があるでしょうか。
これこそ、ひとつの信仰ではないでしょうか。
アウシュヴィッツ以後も、
それどころかアウシュヴィッツ以後にこそ

けっして有効性を失わなかった神信仰
ではないでしょうか。…」

(引用者中略)

 ラピーデ
「…自己実現、自己充足、自己展開という言葉で、
これらの現代的な言葉

わたしは〈利己学(Egologie)〉と名づけたいくらいです。
それは〈人でなしに成ること〉であり、
利己主義(Egoismus)を学問へ高めようとします。
ラビたちとナザレのイエス、彼もラビでした。
彼らの知恵の言葉においては
まさにこれと正反対のことが言われています。

「自分のいのちを救おうとする者はそれを失い、
自分のいのちを失う者はそれを得る」
(ルカによる福音書17章33節)

 このことはとりわけ、
イエスがすばらしい心理学者でもあったことも
証明しています。
(引用者中略)

 …自分自身のためにしか生きず、
自分だけのために実存する人間、
したがって「自己実現」に執着している人間は

とどのつまりは
萎縮し、粗野になり、しだいに精神的に死滅します。
人間が絶望的にしがみつく我(Ich)は、
愛もいのちもないエス〔Es/それ〕に退化します

なぜなら人間の魂は、
魂の本質が要求すること、
他者に対して光を放ち、働きをおよぼすこ
とを、
妨げられるからです。
それに対して 自由な人間
〔自分以外の何か大事なものや大事な相手のために、
自身を忘却することを通じて〕
自分自身を越えゆくことができるが故に、
自分をひとりの他者に献げるが故に、
自分を贈り与える愛においてはじめて
みずからの幸せな自己発見を体験します

イエスは次のように言いたいのです。
ラビたちの意味における幸福の道は、
我を見ること(Ich-Sicht)から
汝を探し求めること(Du-Suche)へ向かっており、
この探し求めは
もっと偉大な〈我々(Wir)〉において頂点に達する
、と。
神学と心理学が
ここでおたがいに手をさしのべあうということを、
或る無名のシベリア抑留者が証しています。
彼は郵便はがきに三行で
みずからの経験を書き記しています。


 わたしは神を探し求めた。
 そうしたら神はご自身をわたしから遠ざけられた。

 わたしはわたしの魂を探し求めた。
 そうしたら魂は見つからなかった。

 わたしはわたし兄弟を探し求めた。
 そうしたら3つとも見つかった
。”

〔※〕「エス(Es)」
:フロイトの精神分析において、
「無意識を形成する衝動的エネルギー」を意味する概念。


(ヴィクトール・E・フランクル&ピンハス・ラピーデ【著】
芝田豊彦・広岡義之【訳】
『人生の意味と神――信仰をめぐる対話』
新教出版社、2014年、57-61頁)

――――――――――

力への意志は、
まさに
愛への意志の対極に立つもの、
存在の意味としての愛への意志の対極に立つものなのです。

 力は、
主観的で相対的な意味と価値、
「自分にとっての」価値しか知りません

それに対して、愛は、
客観的で絶対的な意味と価値、価値「それ自体」をも
知っています


 力は、事物の利用価値を求めます
けれども、
愛は人格の尊厳をも守ります

 力は、人を利己的にします
けれども、
愛は人に価値を見る眼を与えます

 ところで、
力に与することを公言しようとする人たちが
妥協しうるとすれば、
次のジョン・ラスキンの命題がその可能性を与えるでしょう。
ただ一つ力しかない。
それは救う力である。
そして、ただ一つの名誉しかない。
それは助ける名誉である
」”
(ヴィクトール・E・フランクル【著】 /山田邦男・松田美佳【訳】
『苦悩する人間』
 春秋社、63頁)

――――――――――


   〈人生の意味〉

 医者がこの問い〔=人生の意味〕に
一般論として答えを出せるものかどうか、
わたしには疑問です。
なぜなら人生の意味は、
人によって、日によって、時間によってすら異なる
からです。
ですから重要なのは、
一般的な人生の意味ではなく、
ある特定の瞬間における、
ある個人の人生の具体的な意味
なのです。
一般論としてこの質問をすることは、
チェスの世界選手権王者に対して
「チャンピオン、
この世で一番いいチェスの手
教えてくださいますか?」
と質問するようなものです。
その試合における駒の位置と対戦相手の個性左右されない、
「一番いい手」
など存在しません
そもそも「いい手」というものだって存在しません

同じことが人間の実存にも当てはまります。
抽象的な人生の意味を問うこと
重要ではない
のです。
人生においては、
誰もが自分にしかできない仕事、
その人に成就されることを待っている具体的な使命

待っています。
それは
他の人が代わりに果たすことはできませんし、
その人の人生で ふたたびくりかえされることもありません

したがって
それぞれの人間にとって、
いまここにある意味のある課題は、
この課題を実現するために与えられた可能性と同様、
かけがえのない唯一のもの
なのです。

 人生のすべての状況は1つの課題なのであり、
その人が解決すべき問題を突きつけているのですから、
わたしの人生の意味は何ですか
と質問するのは、
方向が逆だ
ということになります。
わたしたちは、
人生の意味は何かと問うのではなく、
問われているのは他でもない自分なのだ
ということを理解しなければなりません。
一言で言うと、
すべての人間は人生から問われているのです。
そして人間は 自分自身の人生に
責任を持つことによってのみ、
人生に答えることができる
のです。
このようにロゴセラピーは、
この責任制の中に、まさに人間存在の本質がある
と考えます。”
(ヴィクトール・フランクル【著】/赤坂桃子【訳】
『ロゴセラピーのエッセンス』
2016年、新教出版社)

―――――――――――

“基本的に克服しがたい事実、
不可避な運命に悩んでいるすべての事例には、
世界観に基づく問題提起を行う必要がある。
障害者、回復の見込みのない病人、
回避することのできない経済上の窮乏によって
近い将来うつ病におちいると思われる人など

これに当たる。
こうした人々には、
責任を意識した人生において重要なのは、
諸価値を創造的に実現したり、
体験(芸術や自然を楽しむ)を通して自己実現したりすること
だけでなく、
価値の実現可能性には究極のカテゴリーがある
という事実を
教える必要がある。
これを私たちは一般に「態度価値」と呼ぼうと思う。
すなわち、
永続的な、または、さしあたり回避できないような、
きわめて運命的な状況に直面して
どのようにふるまうのか
 と問うことで、
価値を実現するチャンスは まだ生み出されるのである。
運命を(「宿命的」と言われるような覆せない運命を)
どのように受け入れるのか
それに負けてしまうのか
それとも毅然としていられるか

――そこには
個人的な価値(勇敢さ、勇気、尊厳)を実現する
最後の可能性も含まれている
。”
(ヴィクトール・フランクル【著】/赤坂桃子【訳】
『ロゴセラピーのエッセンス』
2016年、新教出版社、98頁)

―――――――――――

“人間は決断する存在者です。
それぞれの瞬間に決断します
そして、
人間がそれぞれの瞬間に決断するもの、
それが、次の瞬間に人間が成るもの
なのです。

 〔この世の中には〕2つの「人種」しかありません。
誠実な人間という人種と、不誠実な人間という人種です。
まさに、誠実な人々は少数派だということが分かっているからこそ、
一人一人が、
その少数派を強め支えようと呼びかけられているのです。”
(ヴィクトール・E・フランクル【著】
 /山田邦男・松田美佳【訳】
『苦悩する人間』
 春秋社、93頁)

◇◆◇◆◇◇◆◇◆◇◇◆◇◆◇

私のことで恐縮ながら、
否、むしろ、お恥ずかしながら、
2021年は、
自分にとって
精神的に死ぬほど長く地獄のような1年でした。


全幅の信頼を寄せ、
誠実に接してきた人に、

利用だけされ、欺かれ、仇で返され、踏みにじられ、
相手の責任を自分に転嫁された形で
ポイ捨てされた
り、
また大事な相手に無視されたり、
とても精神的に辛く、
精神的に絶望的な一年
だったからです。


「でした」と過去形で書きましたが、
今も精神的に《蛇の生殺し》に置かれた状態で、
V・E・フランクル『夜と霧』に出てきた
無期限の暫定的存在》のような最中にあります。


けっして〈自殺願望〉がある訳ではないのですが、
とにかく〈精神的に生きるのがとても辛く〉
どうしたら、
できるだけ誰にも迷惑をかけずに、
失敗せずに自死をすることができるか、
何をしていても、
そんな発想しか浮かばなかった時もあります。


他人に自慢できるようなものは、
何ひとつ持っておらず、
社会的に何か成功してみせた訳でもないのですが、
そんな自分であっても、
個人的には、
この世に生きることに、
何の悔いも未練もありません。


というのは、
ここ20年余、
誰も騙さ
誰も踏みつけ

誰か相手の足元も見

誰かに八つ当たり
せず
自分の保身や体裁や体面を保つために
誰かを犠牲にすることをしたり
せず
他人の人生や生活に影響を与えるような嘘を、
自分にも相手にもつくことを、
自己や他者を欺くこと
を、
避ける選択をしてきたからです
(だから、もし仮に、
あの世でご先祖様に会えることがあったとしたら、
ボクは先祖不孝かもしれませんが、
ご先祖さまの顔に泥を塗るような、
ズルい生き方、卑怯な生き方、
醜い生き方
だけはして来なかったこと
弁明できると思っています)。

しかし何よりも、
自分の人生に
悔いも未練も残らなくなった最大の要因は、
仮に周囲に嫌われようが、
仮に愛する人に嫌われようが
「良心=我と汝の関係」のもとに
決断や選択することで、
あるいは
「良心」に従って決断や選択することで

あるいは
「態度価値」に従うことで、
自分の人生を
「瞬間的かつ永遠的に」
自分の手にすることが出来た
ことが、
何よりも大きかったのではないか、
と思っています
(しかし、損得や利害、成功とは無縁です)。

そして、
ソクラテスが
他人に悪さをするくらいならば、
悪さの被害を受けた方がマシ

というのを、
本当に実際に身をもって確かめられた一年でした。

信頼を寄せている相手に対して
踏みにじったり
誠実な相手や良心的な相手を
欺いたり、裏切ることを行うと、
その被害を受けた者は、
こんなに精神的に殺されるに等しい》ものかと、
その残酷性を体験させられたからです。

信頼を寄せてもらっている相手を
騙したり欺いたり、踏みにじる事で、
その相手が、
精神的に生きていけなくなるほど
苦しい思いを味わされる
》ものか、
その体験を、自分が経験すると、
そのような《酷い選択》を選ぶことで、
他人を《苦しませること》を
自分は選ばなくて、
それだけは本当に良かったな、と、
良心的な相手を
欺いたり、裏切ったり踏みにじる立場
自分は立たなくて、
それだけは本当によかったな、と
それだけは心の救いになっています。


どんなに華やかなキャリアを持っていても
どんなに経済的や生活に恵まれていても、
人間性や人格、その生き方が
クズ》だったら、
何もかも“台無し”になる
のだと、
自分には、そう見えるのでした。


エーリッヒ・フロムが

自分を信じれている者だけが、
他人に対して誠実になれる


と言い、

また、加藤諦三
『ずるい人に騙された時 どう生きるか』で

あなたを騙した人は、
先に幸せがると思って生きることはできない

最後に幸せになれるのはあなたの方であることを
忘れてはならない」

とあるように、
ひとの幸せの前提には、
自分や他人に対して誠実で信じれる
「我―汝」の関係性の態度
が必要なのだ、
と今のところは思っています。

自分にとって
2021年と今現在とは、
心や魂を火であぶられるような、
地獄のような日常から、
すこしでも解き放されたくて、
自分の心を救ってくれるような本や思想を
必死に探し求めることで、
《自死》を避けようとしてきた一年でした。


そんな自分にとっては
精神的に地獄の一年のなかで、
すこしでも自分の心を癒してくれた本や思想、
勉強になった本や思想が、
今回の
2021年10月31日》(の暴力と「死への愛」)を
書こうと思い立ったのですが、
その叙述作成に当たり、
役に立つようになるとは思いませんでした。


ボクは、
2022年の一年を、
精神的な余力と時間が許す限り、
2つのテーマの記事を書き上げるつもりでいます。


ひとつは
《2021年10月31日》
――エーリッヒ・フロム(&スピノザ&マルクス)と
加藤諦三『ずるい人に騙された時 どう生きるか』、
カール・ポランニー(&マルクス)、
ヴィクトール・フランクルとマルティン・ブーバーを中心に、
京王線刺傷事件》と、
日本の選挙における
低投票率》および《維新の躍進》に看る、
《騙す者と騙される者との間の騙しの成立》、
生への愛」と《死への愛》、様々な《暴力》形態

また、維新が掲げる《急進的新自由主義》こそが、
格差社会(身分的階級化)における
《自分たちの安泰》にとって“むしろ望ましい”とする利己主義的で「勝ち組」の有権者層
による
ある種の《反動的暴力》(フロム)・・・
といった様々な思惑やリピドーが
一点に集中した点としての「維新票の増大」。
フロムやポランニーによるファシズム分析に見られる
人格」(また人格《破壊》)の重要な位置
最後に「持続可能性」や
「脱成長」的ライフスタイル
にも繋がる、
エーリッヒ・フロムの「在るということ」
見ていくつもりです――


もう一つは
《ハイパー・インフレーション》
――不換マネー化して久しい、
今日のマネー(がもつ「債権債務関係性」の効力)

支える《真の価値》は
「じつは何であるか?」
について、
マルクスなどによる貨幣循環的マネー観をもって、
敗戦直後の日本におけるハイパーインフレ、
1910年代~20年代のドイツ、オーストリア、ハンガリー。
1990年代前半のロシア、
現在のエクアドルにおいて発生した
ハイパーインフレーションの模様を
見ていくことを通じて浮き彫りにしようと企図しています――

についてです。


しかし、残念ながら、
ぼくは、
〈自死を選びたくなる精神的状況〉から
抜け出せた訳ではありません
――自殺願望がある訳ではないのですが、
瞬間瞬間、毎度、
精神的に生きるのが苦しくて、
とても堪えられず、
自死を考え選びがちになることが、
今でもあります――。

あまりに精神的に堪えられなくて、
仕事の最中に、
ビルの7階の窓から飛び降りれるか、
窓から地上を見下ろした時に、
死ぬことの恐怖や躊躇(ためら)いは、
もう有りませんでした。

やはり、
自分の人生に悔いや未練は無いからです。

しかし、
自分の命や人生に、
未練や悔いは無くても、
これからの子どもたちや若者たち、
未来世代や生命たちに対する「憂い」は
依然として残り、

それだけが、ボクを、
生かしてくれていて、
この世に引きとどめてくれています。

しかも、
もし自分が映画『生きる』の主人公のように、
仮に余命わずかの身で、
自分に何ができるかを見つめた時に、
この世の若者や子供たちに対して
何が出来るかを見つめたときに
この世に遺して行けるかもしれないものに
自分が考えたり向き合った時のみが、
地獄や塗炭の苦しみから、
自分を救ってくれるのでした。

(何年も持続する根気はありませんが)

これから更新していく記事の内容は、
自分の自負に反して、
独善以外の何ものでもなく、
陳腐でトンチンカンなものかもしれません



実際に、自分が他人が、
いつ・何で死ぬか、
明日なにが起こるかは、
誰にも分らないものです。
自分が何時・何によって
他界するにしても、
時間と機会が許すかぎり、
いまの現時点で優先順位的に、
まずは、
この2つを遺しておこうと思いました。


ふつう、祈りというものは、
誰かに見せたり聞かせたりするものではなく、
神に向けて語りかけるものなのかもしれませんが、
この2つのテーマのブログの内容が
政治や社会や経済に関する性格であるため、
この世を生きる御同輩の方々の
共鳴や理解などを必要とするので、
他者への語りかけを前提とするものですが、
これらのブログ記事は、
他者への議論的な語りかけであると同時に
お恥ずかしながら、
愛する存在への「祈り」でもあります。

「祈り」や「宗教」と
〈政治〉や〈経済〉など社会的事柄とは
果たして両立し得るか?
むしろ、それは、
「政教分離」の歴史的教訓が示すように、
転び様によっては、
大きな危険性を孕んでいます。

しかし、
「良心=汝との関係性」の基での「責任性」や
世界の全体性への視座をもつ上では、
「超越」的視座は必要である、
と例えば、カール・ポランニーは、
キリスト教的社会主義者の立場から、
論考を書いている場合があります。

また、
今回試みる2つのテーマのうちの
1つ目である《2021年10月30日》に看る、
様々な暴力性(反動的暴力・補償的暴力)》と
ネクロフィリア(「死への愛/生への無関心」)》とを
見つめると、
〈物質的な事柄〉の改善だけでは、
現状における社会的課題の改善や解消には、
限界がある
ように思われます。

しかし、
現状における《様々な行き詰まりに対する
対処的な答えの一つとして、
最終的には宗教に求める、というよりも、
いくつかの宗教が説く在り方を通じて、
産業革命から今日に至るまで続いてきた
〈持つ(To Have)という在り方〉から
在る(To Be)という在り方」に
重点をおく生き方へのシフトチェンジ
を、
エーリッヒ・フロム『生きるということ』(邦訳)
を見ていくことで、
一つのオルタナティヴ(代替品)の紹介や表現としたい
と思っています。


―――――――――――

“ 
というのも、世界とは、
神が創造した建築物としての天と地を
意味するだけではない。
…世界とは
そこに住む住民をも表わす名称である。
…ことに世界を愛するすべての人々が
世界と呼ばれるのである。
(『ヨハネ書簡講解説教』二篇・12)


 地上としてのこの世界は、
神の業を通じて
そのようなものとして構成されただけでなく、
「世界を愛する人々」dilectores mundi、
つまり、人々と彼らの愛するものによって
構成されている。
「世界への愛」die Liebe zur Weltをまって初めて、
「天と地」coelum et terraは、
つまり、
「世界」へと、「移ろいゆくもの」res mutabilisへと
作り上げられてゆく
のである。
死を回避しようとする永続性の追求は、
まさしく死とともに確実に消え失せてしまうものに
自ら固執することを意味している。
その「愛【アモール】」、
誤った「愛されるもの」amatum、
すなわち
その追及をたえず失望に終わらせる、誤った愛の対象を
持つことを意味する。
正しい「愛【アモール】」とは、
まさに正しい「愛の対象」を保持することに存するのである。
世界――ここでは「天と地」としての世界――に
引き入れられ、
やがてそこから去ってゆかねばならない、
死すべき定めにある人間は、
自らの世界への固執によって、
自ら世界をも、消えゆくもの、
つまり、死において消え去るものとなすのである。
人間、
すなわち
「死にゆく者」moriturusの観点から世界を見る時に、
地上のものと死すべきものとを明確に同一視することが、
初めて可能となる。
アウグスティヌスは、
世界に固執し、それによって同時にこの世界を構成する
――すなわち、現世的な――この誤った「愛【アモール】」を、
「欲望」cupiditasと呼び、
永遠と絶対的未来を追及する正しい「愛」を、
「愛」caritasと呼ぶ
のである。


 ……「欲望の人」cupidusは、
自らの「欲望【クビディタス】そのものによって
消えゆく運命へと定められる
が、
他方
「愛【カリタス】」は、
追及される「永遠性」aeternitasの故に、
自ら永遠なるものとなる。
個々の人間は誰しも、たしかに孤立した状態で生きるが、
「愛【アモール】」によって
たえずこうした孤立の状態を克服しようとする

その場合、
「欲望【クビディタス】」は
人間をこの世界の住民となすのであり、
また、「愛【カリタス】」は
人間を絶対的未来に生きさせ、そうすることによって
〈かの〉世界――彼岸世界――の住民となす
のである。”

(ハンナ・アーレント【著】/千葉眞【訳】
『アウグスティヌスの愛の概念』
2012年、みすず書房、23-25頁)

――――――――――――

‟人の、人を本当に愛するとは、
すべての人を愛することであり、
世界を愛し、生命を愛することである。
誰かに
「あなたを愛している」
と言うことができるのなら、
「あなたを通して、
すべての人を、世界を、私自身を
愛している」と言えるはずだ。”

(エーリッヒ・フロム【著】/鈴木昌【訳】
『【新訳版】愛するということ』
1991年、紀伊国屋書店、77頁)

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“しあわせとは、
誰かのために生き、
その相手が幸せそうにしているのを
この目で見ること。”
(「マハーデーヴ・デサイの日記」より)


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Louis Armstrong "What a Wonderful World" live, 1967


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