【0-i】①「自分による自己愛の追求」を通じての《神の自己愛》への「参与」 |   「生きる権利、生きる自由、いのち」が危ない!

  「生きる権利、生きる自由、いのち」が危ない!

突きつめれば「命どぅ宝」!
【新】ツイッター・アカウント☞https://twitter.com/IvanFoucault
徳冨蘆花「謀叛論」を再発見してたら、
「ソクラテスの弁明」が、なぜ好きなのか、最近になって納得し始めた今日この頃です。

〈【前のページ(0-h)】からの続き〉

※太字・下線・色彩・フォント拡大などでの強調は引用者。
また、〈〉で囲った表記部分は、引用原文では傍点で強調。
引用文中でのイタリック斜体は、引用文における引用箇所
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


人間への奉仕介して神に会えるよう励んでいる
というのは、
私は、
天界にましますのでも下界にましますのでもなく
一人ひとりの心の中にましますのを知っているからだ。」
(マハートマー・ガンディー【著】/古賀勝郎【訳】
『今こそ読みたいガンディーの言葉』
2011年、朝日新聞出版、91頁)

―――――――――――――――

神についての知識
書物からの借りられるものではなく、
自己の中実現されるべきもの
だ。
書物は せいぜい助けにしかならず、
しばしば邪魔にさえなる」
(マハートマー・ガンディー 同上 93頁)

―――――――――――――――

「 私にとっては、
とは真理であり愛である。
倫理であり道徳
である
かつまた、
無畏【むい】であり、光と生命の源である。
それにもかかわらず、
これらすべてのものの上にあり、すべてのものを超えている。
はまた、良心であり、無神論者の無神論でさえある‥‥
人格的な存在を求める人たちにとっては人格神であり、

接触を求める人たちには化現【けげん】もする
純粋実在であり、信仰を抱く人にのみ存在する
万人にとって万物である。
われわれの内にありながら
しかも、われわれの上にあり、われわれを超えている・・・・・
神は忍耐強く、気長であるが、恐ろしくもある・・・・・
神に対しては無知は弁明にならない。
かつまた、

常に後悔の機会与えてくれるのであるから寛大である。
世界中で一番の民主主義者
である。
われわれに「足かせをかけず」、
善悪の選択われわれ委ねるからである。
ところが、
神は比類なき暴君なのだ。
しばしばわれわれが唇につけた杯打ち砕き
われわれには
自由意志の装いの下に
神のみを大喜びさせるばかりの
全くの不十分な分量しか残してくれない
・・・・
だからこそヒンドゥー教では それを
すべて神の遊戯と呼ぶのである。」
(マハートマー・ガンディー 同 89-90頁)

―――――――――――――――――――

の、人を本当に愛するとは、
すべての人を愛することであり、
世界を愛し、生命を愛することである

誰かに「あなたを愛している」と言うことができるのなら
あなたを通して
すべての人を、世界を、私自身を愛している」と言えるはず
だ。」
(エーリッヒ・フロム【著】/鈴木昌【訳】
『【新訳版】愛するということ』
1991年、紀伊国屋書店、77頁)

―――――――――――――――――

‟ 以上のような自己愛をめぐる思想を
このうえなく みごとに要約しているのは、
マイスター・エックハルトである。

もし自分自身を愛するならば、
すべての人間を自分と同じように愛している

他人を自分自身よりも愛さないならば
ほんとうの意味で自分自身を愛することできない
自分を含め、あらゆる人を等しく愛するならば、
彼らを 一人の人として愛しているのであり、
その人は 神であると同時に人間である

したがって、
自分を愛し
同時に他のすべての人を等しく愛する人は、
偉大で、正しい
」。”
(エーリッヒ・フロム【著】/鈴木昌【訳】
『【新訳版】愛するということ』
1991年、紀伊国屋書店、100頁)

――――――――――――――――――――――

徳に従う各人は、
自身のために欲する善
他の人々のためにも欲求する
であろう。
そして彼の有する神の認識が よりいっそう大きくなれば、
それに応じて よりいっそう
これを求める
であろう。」
バールーフ・デ・スピノザ【著】『エティカ』(第四部定理三七)

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


“     〈神への愛〉


 これまでに述べてきたように、
私たちの愛の欲求は、
孤立の経験と、そこから生じる欲求
すなわち合一体験によって
その
孤立の不安を克服したいという欲求
由来する

宗教的な形の愛、
すなわち
神への愛と呼ばれるもの
心理学的にいえば、
ほかの愛なんら変わらない

すなわち
神への愛
孤立を克服して合一を達成したいという欲求
由来する

実際、神への愛にも、
人間にたいする愛と同じ数の特質と側面があり、
さまざまな形がある という点でも、
人間への愛と変わらない。

 多神教か一神教かにかかわらず、
神を崇拝するすべての宗教において、
神は最高の価値、最高の善の象徴である。
したがって、
人が神をどのようなものとして捉えるかは、
その人が何を最高善と考えているかによって異なる。


(引用者中略)


〔母親中心的な宗教から、父親中心的な宗教へ発達について〕
19世紀なかばの
バッハオーフェンやモーガンの決定的な大発見によれば、
・・・すくなくとも数多くの文化において、
父権的宗教の前に母権的宗教があったことは
ほぼ間違いない。
母権的宗教では、最高位の存在は母親である。
母親は女神であり、家庭でも社会でも権威者である。

 母権的宗教の本質を理解するには、
私たちが先に母性愛の本質について述べたことを
思い出しさえすればいい。
母性愛は無条件の愛であり、ひたすら保護し、包み込む。
無条件であるため、
コントロールすることも獲得することもできない。
母親に愛される人は無上の喜びをおぼえ、
愛されない人は孤独と絶望に苦しむ。
母親が子どもを愛するのは、
その子が自分の子どもだからであって、
「良い子」だからでも、言うことをよく聞くからでも、
母親の願いや命令どおりにふるまうからでもない。
母親の愛は平等なのだ。
人間はみんな母親から生まれた子どもであり、
母なる大地の子どもであるから、
すべての人間は平等である。

 人間の進化における次の段階は、父権的な段階である。
・・・父性愛の本質は、
父親が要求し、規律や掟をつくることであり、
父親が子どもを愛するか否かは、
子どもが父親の要求に従うか否かにかかっている。
父親が好む息子は、
自分といちばんよく似ている息子、いちばん従順で、自分の後継者、
すなわち財産の相続者としていちばんふさわしい息子である。
・・・その結果、父権的社会は
序列的(階層的)になり、
兄弟間の平等は
競争と反目に取って代わられる。

(引用者中略)


 ・・・宗教における
父権的要素と母権的要素のちがいについて述べたのは、
神への愛の特徴は、
その宗教の父権的な面と母権的な面の
それぞれの比重によって決まることを 示すためである。
父権的な側面によって、私は神を父親のように愛する。
私は考える――神は正しく、厳格で、罰や褒美を与える者であり、
最後には私をお気に入りの息子として選ぶだろう、と。
神がアブラハム・イスラエルを選び、イサクがヤコブを選び、
神がお気に入りの国を選んだように。

 宗教の母権的側面によって、
私は神を、ひたすら抱擁する母親のように愛する。
私は神の愛を信じる。
たとえ私が貧乏だろうと、無力だろうと、罪人だろうと、
神=母親は私を愛し、
他の子どもたちを私より依怙贔屓【えこひいき】することはないだろう。
私の身に何が起ころうと、私を救ってくれ、許してくれるだろう。

 いうまでもなく、
の神への愛と、
神の
への愛とは、
切り離すことはできない

もし神が父親なら、
神は私を息子のように愛し、私は神を父親のように愛する。
もし神が母親なら、
私の神への愛も、神の私への愛も、
母親と子どものあいだの愛のようになる。


(引用者中略)


 人間の進化は、
母権中心的な社会構造から父権中心的なそれへと移行し、
宗教もまた同じ道をたどったので、
愛の成熟過程は、
おもに父権的な宗教の発達のなかに跡づけることができる。
この発達の最初には、横暴で嫉妬深い神がいた。
この神は自分の作った人間を自分の所有物とみなし、
人間にたいしては自分の好き勝手なことをする。
この段階の宗教では、神は、
人間が知恵の木の実を食べて神になってしまわないようにと、
人間を楽園から追放し、
お気に入りの息子ノア以外には気に入った人間は皆無だ という理由で、
洪水によって人類を滅ぼそうと決める。
また、完全な服従の行為によって神への愛を証明させようと、
アブラハムに最愛の息子イサクを殺すよう命じる。

 だが同時に、
新しい段階が始まる。

神はノアと契約を結び、
二度と人類を滅亡させないと約束する。
この契約によって神もまた縛られる。
神は
自分の約束に束縛されるだけでなく、
正義という自分の主義によっても束縛される

それで、
すくなくとも正しい人が10人いたらソドムを救うべきだ
というアブラハムの要求に従わざるをえない。

 こうして神は、
横暴な部族長から、愛する父親へ、
そして〔神が〕自分の決めた規律に自分も縛られる父親へと変わったが、
発達はそれにとどまらなかった。
すなわち、
父親からさらに、
正義・真理・愛という原理の象徴となった。
こそ真理であり、正義である。

この発展過程で、
神は

人間であること、男であること、父親であることをやめた
神は、
さまざまな現象の背後にある統一原理の象徴となり
人間の内にある種子から育つであろう花を象徴するものとなった。
したがって
名前をもつことができない
なぜなら、名前というのは
つねに物とか人間とか、
何か限定されたものを示すからである。
神は
人間でも物でもないのだから、
名前をもてるはずがあろうか



(引用者中略)


 こうした一神教の考え方がさらに成熟してゆくと、
結局、たった一つの結論に達することになる。
すなわち、
神は名をけっして口にしない、
神について語ることもしない、

ということになる。
こうして一神教神学においては、
神は、
潜在的にありうる者、
名前のない「唯一者」、
表現不能の者となる

それは、
あらゆる現象世界の背後にある統一や、
あらゆる存在の根拠を象徴するもの
である。
すなわち

真実・愛・正義そのものになる

私が一人の人間であるかぎり
神はでもある



(引用者中略)


 ・・・真に宗教的な人は、
もしも一神教思想の本質に従うならば、
何かを願ったり祈ったりしなし、
にたいしていっさい何も求めない

〔神/父は私を助けてくれるから、私は神を信じる、といった理屈のように〕
子どもが父や母を愛するように神を愛したりはしない。
そういう人
自分の限界知るだけの謙虚さ
身につけており

自分が神について何一つ知らない
ということを承知している

そのような人にとって、
は、

進化のもっと前の段階で、
人間が自分たちの熱望するものすべて、
すなわち
精神世界、愛、真実、正義といったもの
表現していた象徴
となる

そういう人は、
「神」が表象するさまざまな原理信仰する

すなわち
真理について思索し、
身をもって愛と正義を生きる

彼はこう考える――
人生は、
自分の人間としての能力

より大きく開花できるような機会

与えてくれるという意味においてのみ
価値があり

能力〔能動〕の開花こそが
真に重要な唯一の現実
であり、
究極的関心」の唯一の対象
なのだ
、と。
そして、
神について語らないし、その名を口にすることもない
したがって、
愛するということ
――彼がこの表現を用いるとしたら――
最大限の愛する能力
獲得したいと願うこと
あり、
」が象徴しているもの
実現したいと望むこと
なのである。


(引用者中略)


 ・・愛や理性や正義実在する
それはひとえに、
人間が進化の過程で、

自分自身の内部
これら〔愛、真実、正義〕の能力
発展させることができたから
である。
この観点からすると、
人間

自分で意味を与えないかぎり
人生には意味がない

人間
他人助けないかぎり
まったく孤独である


(引用者中略)

 ・・・逆説論理学の教師は こう教える
――人は
矛盾においてしか知覚できず、
最高の唯一の実在である神
〈思考〉によって知ることできない
、と。

(引用者中略)

結局のところ、
世界を知るただ一つの方法
思考ではなく
行為
すなわち一体感の経験である
したがって
逆説論理学は
次のような結論に達する
――への愛とは
思考によって神を知ることでも、
神への愛について考えることでもなく、
神との一体感を経験する行為ある。

 それゆえ、
正しい生き方
重視されること
になる

些細なことも重要な行為も含め、
生活のすべて

神を知るために捧げられる
ただし、
正しい思考によってではなく
正しい行いによって知るのである。


(引用者中略)

 近代に目を向けると、
これと同じ原理
スピノザ、マルクス、フロイトの思想に
あらわれている

スピノザの哲学では、
正しい信仰よりも
正しい生き方重視される。
マルクスは この原理を、
「哲学者たちは
世界をさまざまに説明してきたが、
必要なのは 世界を変えることだ」
という言い方で表現している。
フロイトは
逆説論理学から、
精神分析療法という、
自分自身をより深く体験する方法を編み出した。

 逆説論理学の立場からすれば、
重要なのは思考ではなく
行為
である。


(引用者中略)

 西洋における支配的な宗教体系では、
神への愛は、本質的に、
神を、神の実在を、
神の正義を、神の愛を、
信じることと同じである。
神への愛とは
本質的に思考上の体験なのである。
東洋の宗教や神秘主義においては、
神への愛は
一体感という感覚上の強烈な体験
であり、
それは、
生のすべての行為において
その愛を表現すること不可分に
結びついている


 この目標にもっとも徹底した表現をあたえたのは
マイスター・エックハルトである。
「それゆえ、
もしが神となり
神がご自身と一つにして下さるなら
そのとき、生ける神の御名において
神と私のあいだにはどんな区別もない

・・・まるで神が向こう側に、
そして私たちがこちら側にいるかのように、
神を見るだろうと想像している人たちがいるが、
それはちがう。

神ととは一つである
知ることにより
神を私自身へともたらす
愛することによって
神のうちへと入る
」。


(エーリッヒ・フロム【著】/鈴木昌【訳】
『【新訳版】愛するということ』
1991年、紀伊国屋書店、100-122頁)

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

(【次のページ(0-j)】につづく)