【0-c】人間は責任性存在~エーリッヒ・フロム〈西洋現代社会における「愛」の崩壊〉~ |   「生きる権利、生きる自由、いのち」が危ない!

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突きつめれば「命どぅ宝」!
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徳冨蘆花「謀叛論」を再発見してたら、
「ソクラテスの弁明」が、なぜ好きなのか、最近になって納得し始めた今日この頃です。


《新型コロナ禍》を‟潜り抜けてみせた”「未来」が、あなたを待っていて、必要としている!〉という記事から

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

〈b〉人間は「責任性存在」【ハンナ・アーレント編〈0〉】~「独裁体制のもとでの個人の責任」~〉を補う記事としての今回記事

※太字・下線・色彩などでの強調は引用者。
また、イタリック斜体は、引用原文では傍点で強調。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


‟ 世界で生じている問題の根源は
自己愛にではなく、自己嫌悪にある。”

(エリック・ホッファー【著】/中本義彦【訳】
『魂の錬金術 エリック・ホッファー全アフォリズム集』
2003年、作品社、53頁)
――――――――――――――――

           〈41〉
 権力は腐敗するとしばしば言われる。
しかし、
弱さもまた腐敗することを知るのが、等しく重要であろう。
権力は少数者を腐敗させるが、
弱さは多数者を腐敗させる
憎悪、敵意、粗暴、不寛容、猜疑は、弱さの所産
である。
弱者の逆恨みの源泉は、
彼らが被る不正ではなく、
むしろ自分自身が無力で無能だという意識にある
弱者が憎むのは
邪悪さではなく、弱さなのである。
その力さえあれば、弱者は
手当たり次第に弱いものを破壊する。
弱者が自分以上の弱者を餌食にするときの、あの酷薄さ!
弱者の自己嫌悪は、彼らの弱さへの憎悪を示す一例
にすぎない。”

(エリック・ホッファー【著】/中本義彦【訳】
『魂の錬金術 エリック・ホッファー全アフォリズム集』
2003年、作品社)
――――――――――――――――――

‟ 普段は見つけることができない
政治的なはけ口や恐怖やフラストレーションを、
人々は
憎悪によって代替し、表現できる。

それゆえ憎悪の共有と高揚は ますます増大する
のだろう、
とバウマンは述べた。
この意味において、
憎悪およびヒステリーの政治学は、
私が本書で論じた政治的無力感
深く結合したもの
である。
自由を謳歌せよ、自己責任を負え、
と いかに教化されようとも、
多くの人々は、
自分たちが理解も管理もできない力の支配下にあること
知っていた。

 同じく、多くの人々は、
不公正で欠陥に満ちた社会に生きていること
自覚しているが、
その社会を改革するための貢献の手段を見出せないでいる。
何もすることができないまま
不公正な社会を生きる
には、
その対応として、
次の二つの選択肢を採用する。
一方は、
世界を変えることのできない自分自身の無力さを嫌悪することであり、
他方は、
外部に標的を定めて感情を表出するこ
である。
そして、
不公正の原因が特定できない時、
この怒りの破壊的な力は、
壊しやすいものに向くことになる。
すなわち弱者や少数者や異物が標的と定められる

デッカ・アイケンヘッドが報道した憎悪
および
日本でのイラクで拘束された人質に向けられた怒りは、
換言すれば、
自身をとりまく世界に有意義な関与ができないことに対する
個々人の大きなフラストレーションから発した
行き場のない憎悪が出口を発見したといえる。
「現在世界は、
はけ口を探す絶望的なフラストレーションと
さまよい歩く恐怖
で、満杯となった容器のようだ」
とバウマンは述べた。”

(テッサ=モーリス・スズキ【著】/辛島理人【訳】
『自由を耐え忍ぶ』
2004年、岩波書店、206-207頁)

――――――――――――――――――

‟      《自由と無力感》

 我々は、
自由と民主主義が勝利した といわれる時代に生きている。
しかし、民主主義とは、
それぞれの生活に影響を及ぼす決定に
それぞれが発言権を持つということを意味する。
したがって、
市場の侵蝕がもたらした発言権喪失という局面は、
現在多くの人々に抗しがたい無力感を与えている


 この抗しがたい無力感について考えられる理由を、
第1章、第2章で ある程度議論してきた。
経済的な側面では、
自由は
企業市場経済の成長の自由という
「成長するに任せよ(laissez crôitre)」論に
収斂される。
グローバルな企業市場は、
生存のために成長を要請する。
少なくとも
この1世紀の成長のための重要な処方箋の一つは、
個人の生を
市場が侵蝕する「社会的深化」の推進だった。
結果として物質的な豊かさや快適さをもたらした という意味において、
市場の「社会的深化」は
多くの者にとり 必ずしも悪いものではなかった

しかし、
今日では精神や身体の改造にまで及ぶ、
市場による間断なき個の日常生活の改造
について、
はや多くの者たちは
その決定影響力を失ってしまったと感じている


(テッサ・モーリス-スズキ【著】/辛島理人【訳】
『自由を耐え忍ぶ』岩波書店、2004年、74頁)

―――――――――――――――――――


‟「人間を無用視する」…・・・「倒錯した意志」には
根源的な悪」があるとアーレントが診断をくだすときがそうですが、
これは別の言い方をしますと、
過去のものでもまだ潜在しているものでも、
全体主義的な人間は、
自分自身の生の意味根絶して、人間的な生破壊するということです。
いやそれ以上です。
アーレントは
人間的な生を「無用視する傾向」が
帝国主義の興隆のうちに認められることを力説していますが、
オートメーションに支配されている現代の民主主義でも、
そういう傾向はなくなっているどころではありません


 「根源的な悪は
 すべての人々をひとしく無用視するシステムと結びついて現れた
 と言っていい。
 そういうシステムを操っている者たちは、
 他の人々を無用だと思っているだけでなく、
 自分自身も無用だと思っている

 全体主義における殺戮者たちがそれ以上に危険なのは、
 かれらが自分の生死を意に介することなく、
 自分は生まれても生まれなくてもどうでもよかった
 と思っている
からである。
 死体製造工場や忘却による裂け目がもたらした脅威は、
 今日では世界中で人口が増加し故郷喪失が深まるとともに、
 無数の人々が絶えず無用なものとされている事実
である。
 世界を功利主義的な用語で考え続けているかぎり
 そうなるほかはない

 政治的、社会的、経済的な出来事はいたるところで、
 人々を無用なものとすべく考案された全体主義の様々な機構
 ひそかに結託しているのである。」”

(ジュリア・クリスティヴァ【著】/青木隆嘉【訳】
『ハンナ・アーレント講義』
2015年、論創社、6-7頁)

――――――――――――――――――――――――――
〈関連記事〉
〇【27】④ 史的な資本主義システムは《ダイナミックに変身し、生まれ変わる》という見方
〇【34】モーリス-スズキ「〈20世紀型国民国家大衆消費経済〉から二重の運動の《逆転》へ

――――――――――――――――――――――――――


愛が、
成熟した生産的な能力
だとしたら、
どんな社会に生きている人でも、
その人の愛する能力は、
その社会が一般の人びとにおよぼす影響に左右される

現代西洋社会における愛について論じる ということは、
すなわち、
西洋文明の社会構造と そこから生まれた精神が、
愛の発達を促すものであるかどうかを問うことである。
そして、そのように問うということは、
すなわち、「否」だということである
〔西洋文明の社会構造と そこから生まれた精神が、
愛の発達を促すもの「ではない」ということ〕。
西洋社会を客観的に見てみれば、
兄弟愛・母性愛・異性愛を問わず、
愛というものが
比較的まれにしか見られず、
さまざまな形の偽りの愛によって
取って代わられていること

あきらかだ。
そうした偽の愛こそ、
じつは崩壊のあらわれ
なのである。


 資本主義社会は、
一方では
政治的自由の原理に、
他方では、
あらゆる経済的関係を――したがって社会的関係をも――
すべてを調整するものとしての市場原理にもとづいている。
商品市場は商品の交換条件を決定し、
労働市場は労働力の売買を調整する。
有用な物も、有用な労働力や技能も、
商品化され、暴力の行使や詐欺によることなく、
市場の条件にしたがって交換される。
たとえば靴は、
どんなに有用で必要なものだとしても、
市場において需要がなければ、
なんの経済的価値(交換価値)もない。
労働力や技能にしても、
そのときの市場条件のもとで需要がなければ、
交換価値がない。

 資本家は
労働力を買って、
自分の資本の有効な投資のために
それを用いることができる。
労働者は、飢え死にたくなければ、
そのときの市場条件にしたがって、
労働力を資本家に売らなければならない。
このような経済構造は
価値体系にも反映している。
資本は労働力を意のままに動かす。
蓄積された物品は、生命をもたないのに、
労働力や、人間の能力や、生きているものよりも、
高い価値をもつ。

 これが、
資本主義社会が始まって以来の基本構造
であった。
これはいまだに現代資本主義の特徴であるが、
多くの要因が変化したために、
現代の資本主義独特の性質をもち、
現代人の性格構造も その深刻な影響を受けている


 資本主義が発達した結果、
資本は ますます蓄積と集中の傾向をつよめている。
大企業は ますます巨大化し、
中小企業は どんどんつぶれていく。
企業に投下された資本の所有者は、
その企業の経営から ますます遠ざかってゆく。
何万、何千という株主が 企業を「所有」している。
いっぽう経営陣は、
高給をもらってはいるが、
その企業を所有しているわけではない。
そしてその経営陣は、
最大の利益をあげることよりも、
企業の拡大や、自分たちの権力の拡大に関心を抱いている。

 このように資本がいっそう集中化し、
強力な経営陣が出現するいっぽうで、
労働運動が発達してきた。
労働者の組織化によって、
個々の労働者は
労働市場で自分ひとりで労働力を売りに出す必要が
なくなった。
そして、労働者が加入する大きな労働組合もまた、
個々の労働者に代わって、
大企業と対決する強力な幹部によって運営されている。
良かれ悪しかれ、
資本の分野でも労働の分野でも、
主導権は個人から組織へと移行してきたのだ。

いまや多くの人びとが独立失い
巨大な経済帝国の管理者たちに
ますます依存するようになっている。

 こうした資本の集中化によって生じた
もう一つの決定的な点は、
現代資本主義の特徴であるが、
独特の形による労働の組織化である。
集中管理による大企業では、

徹底した分業体制により、
個々の労働者は
個性を失い、
使い捨ての機械部品みたいなものになっている


 現代資本主義社会に生きる人間が抱えている問題は、
次のように整理することができよう。

 現代資本主義
どんな人間必要としているだろうか

それは、
大人数で円滑に協力しあう人間、
飽くことなく消費したがる人間、
好みが標準化されていて、
ほかからの影響を受けやすく、
その行動を予測しやすい人間である

また、
自分は自由で独立していると信じ〔こみ〕、
いかなる権威・主義・良心にも服従せず、
それでいて命令にはすすんで従い、
期待に添うように行動し、
摩擦を起こすことなく
社会という機械に自分をすすんではめこむ人間である。
無理じいせずとも容易の操縦することができ、
指導者がいなくとも道から逸れることなく、
自分自身の目的がなくとも、
「実行せよ」「休まずに働け」「自分の役目を果たせ」
「ただ前を見てすすめ」といった命令を
黙々と従って働く人間
である。

 その結果、どういうことになるか

 現代人
自分自身からも、仲間からも、自然からも疎外されている

現代人商品化し
自分の生命力まるで投資のように感じている

投資である以上、
現在の市場条件のもとで得られる最大限の利益を
もたらさなければならない
ということになる。
人間関係は、本質的に、
疎外されたロボットどうしの関係になっており、
個々人は
集団に密着していることによって
身の安全を確保しようとし、
考えも感情も行動も周囲とちがわないようしようと努める

誰もが できるだけ ほかの人びとと密着していようと
努める
が、
それにもかかわらず
誰もが孤独で、孤独を克服できないときに
かならずやってくる不安定感・不安感・罪悪感に
おびえている


 現代文明は、
人びとが そうした孤独気づかないように、
さまざまな鎮痛剤を提供している

それはまず第一に、
制度化された機械的な仕事の、厳密に決められた手順である。
これがあるために、人びとは、
自分のもっとも根本的な人間的欲求
すなわち超越と合一への憧れ気づかない
しかし、
機械的な仕事だけでは孤独克服することができないので、
娯楽までが画一化され
人びとは娯楽産業の提供する音や映像を
受動的に消費している

さらには、
次から次へと物を買いこみ、
すぐにそれを他人と交換したりして

孤独紛らそうとする


 現代人は、
オルダス・ハクスリーが
『すばらしき新世界』で描いているような人間像に近い

うまい物をたっぷり食べ、きれいな服を着て、
性的にも満ち足りているが、
自分というものなく
他人ともきわめて表面的な触れ合いしかなく
ハックスリーが簡潔にまとめているようなスローガンに
導かれて生きている

――「個人が感情をもつと、社会が揺らぐ」、
「今日の楽しみを明日に延ばすな」、
あるいは最高のスローガン、
「昨今は誰もが幸福だ」。

 今日の人間の幸福「楽しい」ということだ。
楽しいとは、何でも「手に入れ」、消費することだ。
商品、映像、料理、酒、タバコ、人間、講義、本、映画などを
人びとは かたっぱしから呑みこみ、消費する

世界は、私たちの消費欲を満たすための一つの大きな物体だ。
大きなリンゴ、大きな酒瓶、大きな乳房なのだ。
私たちはその乳房にしゃぶりつき、
限りない期待を抱き、希望を失わず

それでいて永遠に失望している

いまや私たちの性格は、
交換と消費に適応している
物質的なものだけでなく精神的なものまでもが、
交換と消費の対象となっている


 必然的に愛をめぐる状況も、
現代人のそうした社会的性格呼応している

ロボット愛することできない

ロボット
商品化された人格」を交換し、公平な売買を望む

愛の――とくのこのように疎外された構造をもつ結婚の――
もっとも重要なあらわれの1つが、
「チーム」という観念である。
幸福な結婚に関する記事を読むと、
かならず、結婚の理想は円滑に機能するチーム
と書いてある。
こうした発想は、
滞りなく役目を果たす労働者という考え
たいしてちがわない

そうした労働者は
「適度に独立して」おり、強力的で、寛大だが、
同時に野心にみち、積極的であるべきだとされる。
同じように、
結婚カウンセラーは言う
――夫は妻を「理解」し、協力すべきだ
新しいドレスや料理をほめなくてはいけない。
いっぽう妻のほうは、
夫が疲れて不機嫌で帰宅したときには優しくいたわり、
夫が仕事上のトラブルを打ち明けるときには
心をこめて聞き、妻の誕生日を忘れても怒ったりせず、
理解しようと努めるできである、と。

 こうした関係を続けていると、
二人のあいだがぎくしゃくすることはない
が、
結局のところ、二人は生涯 他人のままであり、
けっして「中心と中心の関係」にとどまる


 愛と結婚に関するこうした考え方では、
堪えがたい孤独感からの避難所を見つけること
いちばんの力点が置かれている

私たちは「愛」のなかに、
ついに孤独からの避難所を見つけた、というわけだ。
人は
世界にたいして、二人から成る同盟を結成する

この二倍になった利己主義が、
愛や信頼の情だと誤解されている


 チーム精神相互の寛大さなどが
強調されるようになったのは
比較的最近のこと
である。
第一次世界大戦後の数年間は、
たがいの性的満足こそが
満ち足りた愛情関係の――とくに幸福な結婚の――土台である

という考え方が 流行した
結婚がしばしば不幸な結果に終わる原因は、
結婚相手どうしが正しい「性的適応」をしなかったことであり、
正しい性的適応をしなかった原因は、
夫婦の片方あるいは双方が「正しい」性行動に関して
まったく無知で、そのために
誤ったセックスのテクニックに頼っていること
である、
とされた。
この誤りを「治療」し、
不幸な夫婦を助けるため
と称して、数多くの本が、
正しい性行動に関する知識と助言を提供し、
これで幸福と愛が生まれるだろうと
――暗黙のうちに、あるいは公然と――約束した。


 こうした発想の底にあるのは、
愛は性的快楽から生まれる子どもであり、
二人の人間が
たがいに相手を性的に満足させる術を身につけさえすれば、
自然に二人は愛しあうようになる

という考え方だ。
こうした考え方は、
当時の全般的な幻想、
すなわち、正しい技術を用いさえすれば、
工業生産における技術的な問題だけではなく、
人間の問題全般をも解決できる
、という思い込みと
一致していた

自分たちは真実逆を前提にしているのだ ということに、
誰も気づかなかったのである。

 愛が適切な性的満足の結果
なのではなく、
性的満足が――いわゆるセックスのテクニックですら――
愛の結果なのである。
この説に関して、
日常的に観察される事例以上に証拠が必要だ
というのなら、
それは精神分析によって得られた豊富な資料のなかに
見出される。
もっとも頻繁に見受けられる性的障害
――女性の冷感症と、男性の心理的不能【インポテンツ】――の研究からあきらかになることは、
そうした障害の原因は
正しい性的テクニックを知らないことにある
のではなく、
愛することできなくするような抑制にある

ということである。
そうした障害の底には、
異性にたいする恐怖あるいは憎悪があり、
そのために、
完全に没頭するするとか、自発的に行動するとか、
直接的な肉体的接触において性的パートナーを信頼する

といったことができない
のである。
性的に抑圧されている人が、
恐怖や憎悪から解放され、
それによって人を愛することができるようになれば

性的な問題は解決する。
そうでないかぎり、
セックスのテクニックに関する知識をいくら積んだところで
何の役にも立たない

 精神分析治療によって得られた資料は、
正しいセックスのテクニックを知れば、性的満足を得られる
という考え方
が誤りであることを明らかにするが、
そうした考え方の底にある、
愛は相互の性的満足の付属物だ という仮定は、
じつはフロイトの理論に大きく影響されている。
フロイトにいわせれば、
愛は 基本的に性的現象である
「自分の経験から、
性的な(性器的な)愛こそが
もっとも強烈な満足感を与えてくれるものであることを知り、
性的な愛こそが あらゆる幸福の原型だ と確信した人は、
その後も、性的関係の方面に幸福を求め、
性器的な愛を自分の人生の中心に据えるようになる」。
 兄弟愛の経験も、
フロイトによれば性的欲望の結果
だが、
この場合は
性的本能が、「目的を抑制された」衝動に変化している。
目的を抑制された愛【兄弟愛】も、
本来は純粋に官能的な愛だったのであり、
人間の無意識のなかでは いまもなお官能的な愛
なのである」

 神秘的体験の本質であり、
一人あるいは複数の他人との
もっとも強烈な一体感の根底にある、
融合感覚や一体感
(「大洋感情」)についてはどうか
というと、
フロイトは これを、
病的な現象、
幼児期の「無限のナルシシズム」の状態への退行

と解釈している。

 これをさらに一歩すすめれば、
フロイトにとっては 愛そのもの不合理な現象である
ということだ。
フロイトにとっては、
不合理な愛と、成熟した人格の実現の表現としての愛との
あいだに、ちがいはない

彼は転移愛に関する論文のなかで、
転移愛は 本質的に「正常な」愛の現象と ちがわない
と述べている。
恋に落ちるという現象は つねに異常すれすれであり、
かならず現実が見えなくなり、脅迫的であり、
幼児期の愛の対象の転移である という。
合理的現象としての愛、成熟の最高の達成としての愛は、
フロイトにとっては 研究の対象とならない

彼にとっては、そのようなもの
現実には存在しない
のだから。

 しかしながら、
愛は性的に引きつけあうことの結果である、とか、
愛は性的満足と同じものであり、
それが意識に投影されたものだ、
といった考え方にたいするフロイト思想の影響を
過大評価してはならない。
じつは、因果関係は逆なのである。
フロイトの思想は、
ある程度 19世紀の精神の影響を受けている
し、
またフロイトの思想流行したのも、
第一次世界大戦後の時代精神のおかげ
なのである。

 一般に広く流行した考え方とフロイトの思想の双方に
影響を与えた要因
は、
まず、
ヴィクトリア時代の厳格な性道徳にたいする反動である。

 ロイトの理論決定している第二の要因は、
広くし浸透している、資本主義の構造にもとづいた人間観のなかにある

資本主義が人間の自然な欲求にこたえるものであること
証明するには、
人間が本来競争心がつよく、
他の人間にたいする敵意にあふれていること

示す必要があった。
経済学者は これを、
経済的利益にたいする飽くことのない欲求
によって
「証明」し、
ダーウィン主義者は適者生存という生物学的法則によって
「証明」した。
フロイトもまた、
次のような仮説を立てて「証明」した。
すなわち、
男はすべての女を性的に征服したい
という欲望によって衝【つ】き動かされており、
欲望のままに行動しないのは
社会の圧力によって抑えられているからにすぎない

したがって
男はたがいに嫉妬しあい、
たとえ社会的には嫉妬する原因がなくなったとしても、
嫉妬と競争心はなくならない。

 最後に、フロイトの思想
19世紀的な唯物論の影響大きく受けている

19世紀的な唯物論にしたがえば、
あらゆる心理的現象のもと
生理現象のなかにある
そこでフロイトは、
愛・憎しみ・野心・嫉妬を、
性的本能の結果が さまざまな形をとってあらわれたもの
と説明したのである。
フロイトが見落としていたのは、
基本的な真実は人間の生の全体性のなかにあるということ

すなわち
第一に、
すべての人間が等しく置かれている状況のなかにあり
第二に、
特定の社会構造によって決定される生き方のなかにある
ということだ
(この種の唯物論から決定的な一歩を踏み出したのが
マルクスの「史的唯物論」である。
史的唯物論では、
人間を理解する鍵となるのは、
肉体でも、貪欲や所有欲といった本能的なものでもなく、
人間の生の営み全体、すなわち「生活の実践」である)。

 フロイトにしたがえば、
あらゆる本能的な欲望が抑制されることなく
じゅうぶんに満たされれば、
精神的な健康と幸福が得られるはずだ

しかし、
臨床上の事例が はっきり示しているように、
男であれ女であれ、
歯止めのない性的満足の全人生をを捧げるような人は
幸福を得られない。
それどころか、
ひどい神経症的な葛藤【かっとう】に陥ったり、
神経症の症状を呈したりすることすらある。
あらゆる本能的欲求を完全に満たすことは、
幸福の基盤でないばかりか、
正気をも失わせかねないのである。


 にもかかわらず、
フロイトの思想が第一次世界大戦にあれほど流行したのは、
資本主義の精神変化が生じたため
である。
すなわち、
節約から消費へと重点が移行し、
経済的成功のためには堅忍不抜が必要だ
という考えにかわって
消費こそが拡大しつづける市場を支え、
不安をかかえるロボット化した人間に
大きな満足を与えるものだ

という考え方が登場した

物質的消費の面だけではなく、セックスの面でも、
欲望の充足を先へ延ばさない というのが
主要な傾向となった

 フロイトの思想は、
今世紀の初頭にはまだ無傷のまま残っていた資本主義の精神
一致しているが、
そのフロイトの思想を、
現代のもっとも傑出した精神分析家の一人、
H・S・サリヴァンの理論と比較してみると おもしろい。
サリヴァンの精神分析学体系では、
フロイトとは対照的に、性と愛とが厳密に区別されている

 サリヴァンの思想においては、
愛や親密の情は どのような意味をもっているのだろうか。
「親愛の情とは、
二人の人間が参加し、
人間的価値のあらゆる構成要素を認めることが
できるような状態のこと
である。
人間的価値を認めるには、
私が協力体勢と呼ぶある種の関係が必要である。
私のいう協力体制とは、
しだいに同じものになってゆく
つまり
しだいに共通のものとなってゆく満足を追求するために、
また、しだいに相手のと似てくる安全策を保持するために、
相手が表明する欲求にたいして、
自分の行動を明確な形で適応させること
である」
いささか難解な言い回しだが、
サリヴァンの言いたいのは要するに、
愛の本質は 協力体制という状態のなかに見られる
ということである。
協力体制においては、二人は
「私たちは、
自分たちの威信と優越感と長所を守るための規則にのっとって
ゲームを演じている
のだ」と感じる。

 フロイトの愛の概念が、
父権的な男性の経験を19世紀的資本主義の観点から
述べたもの
であるのと ちょうど同じように、
サリヴァンによる愛の説明は、
20世紀の、疎外されて商品化された人間の経験
語っている
のである。
彼が語っているのは、
二倍になった利己主義」、
すなわち、
それぞれの利益を出しあって、
敵意にみちて疎外された世界にたいして結束している二人のことである。

 実のところ、
親愛の情についてサリヴァンがくだしている定義は、
成員がたがいに協力しあっているチームなら、
だいたいどのようなチームにも あてはまる
なぜなら、
そうしたチームにおいては、成員一人ひとり
共通の目的を追求するために、
自分の行動を、相手が表明する欲求に合わせる」もの
だからである…。

 たがいの性的満足としての愛と、
「チームワーク」としての愛
あるいは
孤独からの避難所としての愛は、
どちらも、
現代西洋社会における崩壊した愛
すなわち
現代社会の特徴である病んだ愛の、「正常な」姿なのである。
病んだ愛がどんな形をとるかは 人によってさまざまだが、
結局は意識のうえに苦しみをもたらす
そしてその苦しみは、
精神科医の眼から見ると、いや素人の眼から見ても、
神経症的である。

(引用者中略)

 偽りの愛の一種で、よく見受けられるのが
偶像崇拝的な愛である。
これは良く映画や小説などで「大恋愛」として描かれる
ある人が、
自分の能力の生産的な使用に根ざした、
しっかりとした自意識
もつにいたらなかった場合
愛する人を「偶像化」しがちである。
そういう人は自分の能力から疎外され
その能力を愛する人のうえに投影する
そのため、
愛する人は「至高善」として
すなわち、
すべての愛と光と幸福をもった者として、崇拝される
彼は まったく無力になり、
恋人のなかに自分自身を見出すどころか、
自分を見失ってしまう
ふつうは誰だって、いつまでも
自分を偶像のように崇拝する人の期待どおりに生きること
できないから、
かならずや失望がやってくる
それを癒すために、新たな偶像を探す
ときにはそれは何度も何度も繰り返される

 この種の偶像崇拝的な愛の特徴は、
出会いの瞬間に突然、激しい恋に落ちる
 ということである。
この偶像崇拝な愛は、
しばしば、真の愛、大恋愛として描かれる

それだけ強烈で深いというわけだが、
そう見えるのは、
崇拝者の渇望と絶望が深刻だから
である。
もちろん、
二人がたがいに相手を偶像として崇拝することも
珍しくない。
極端な場合には、
それが
二人精神病【フォーリー・ア・ドウ】」の様相を呈することもある。

(引用者中略)

 投射のメカニズムによって、
自分自身の問題を避け
そのかわりに
「愛する」人の欠点や弱点に関心を注ぐといった態度
にも、
神経症的な愛の一つの形が見られる。
この場合、
個人が、集団や民族や宗教のようにふるまう
この手の人間は、
他人のどんな些細な欠点もめざとく見つけ
他人を非難し、矯正することに忙しく
自分の欠点にはまったく気づかずに平然としている

よくあることだが、
二人がともにこういうタイプの人間だと、
愛情関係が相互投射の関係に変わってしまう
自分が
支配的だったり、優柔不断だったり、欲張りだったとしても、
それを全部相手にかぶせて非難し、性格によって、
相手を矯正しようとしたり、罰したりする

相手も同じことをする。
それで二人とも自分の問題には気づかないまま
自分の発達によって役に立ちそうなこと何一つしない


 さまざまな投射があるが、
自分の問題を子供に投射するというのもある。
まず第一に、この投射が、
子どもにかける期待となってあらわれること

よくある。
そうした場合、子どもにかける期待は、
まず、自分の人生の問題を
子どもの人生に投射することによって決まってくる。
自分の人生に意味見出せない人は、
そのかわりに子どもの人生に意味を見出そうとする

しかし、それでは
自分の人生にも失敗するし、
それだけでなく、
子どもにも誤った人生を遅らせることになる

なぜ自分の人生に失敗するかといえば、
それは、いかに生きるかという問題は、
本人によってしか解決できず
身がわりを使うわけにはゆかないから
だ。
どうして子どもにも誤った人生を遅らせることになるか
といえば、
そういう人は、
子どもが自分で答えを見いだそうとしたとき
導いてやれるだけの資質に欠けるからだ。

 不幸な結婚に終止符を打つべきではないか
という問題が生じたときも、
子どもが投射の目的に使われる。
そういう状況にある夫婦はよく、
子どもから一家団欒【だんらん】の幸せを
奪ってはらなないから、離婚するわけにはいかない、
と言う。
しかし、
「一家団欒」のなかにただよう緊張と不幸の雰囲気は、
はっきり離婚するよりも、ずっと子どもに悪影響をおよぼす
すくなくとも、
親が離婚すことによって、子どもたちは、
勇気をもって決断すれば、
堪えがたい状況にも終止符が打てるということを、
身をもって学ぶ。

 ここで、しばしば見受けるもう一つの誤りについて
述べておく必要があろう。
すなわち、
愛があれば絶対に対立は起こらない、という幻想である。
人はふつう、どんなことがあっても
苦しみや悲しみは避けるべきだ と信じているが、
ちょうどそれと同じように、
愛があれば対立は起きないと信じている

どうしてそう思うのかといえば、
身の回りで見かける対立がすべて、
どちらの側にも良い結果をもたらさない破滅的な交わりにしか
ない
からだ。
なぜ双方に好ましくない結果しかもたらさないのかといえば、
ほとんどの人の「対立」が、
じつは、
真の対立避けようとする企てにすぎない
から
である。
もともと解決などありえないような
些細な表面的なことがら
で、
仲たがいしているにすぎないのだ。
二人の人間のあいだに起きる真の対立
すなわち、
何かを隠蔽【いんぺい】したり投射したりするものではなく、
内的現実の奥底で体験されるような対立
は、
けっして破壊的ではない。
そういう対立は かならずや解決し、
カタルシスをもたらし、
それによって二人は より豊かな知識と能力を得る


 ここで、
先に述べたことを もう一度強調しておく必要がある。

 二人の人間が
自分たちの存在の中心と中心で意志を通じあうとき
すなわち
それぞれが
自分の存在の中心において自分自身を経験するとき

はじめてが生まれる

この「中心における経験」のなかにしか
人間の現実はない
人間の生は そこにしかなく

したがって愛の基盤も そこにしかない
そうした経験にもとづく愛は、たえまない挑戦である

それは安らぎの場ではなく、
活動であり、成長であり、共同作業
である。
調和があるのか対立があるのか、
喜びがあるか悲しみがあるかなどといったことは、
根本的な事実に比べたらとるに足らない問題だ。
根本的な事実とは
すなわち、
二人の人間が
それぞれの存在の本質において自分自身を経験し、
自分自身から逃避するではなく、
自分自身と一体化することによって、
相手と一体化することによって、
相手と一体化するということ
である。
愛があることを証明するものは ただ一つ
すなわち
二人の結びつきの深さそれぞれの生命力と強さである。
これが実ったところにのみ、愛が認められる


 ロボット
たがいに愛しあうことできないが、
同様に神を愛することできない
神への愛崩壊も、
人間どうしの愛崩壊歩調を合わせて進行している

この事実は、
最近になってまた宗教が復活しているのではないか
という意見
と、まっこうから矛盾する
宗教が復活しているなどというのは真っ赤な嘘だ。
もちろん例外はあるが、
いまや宗教は偶像崇拝へと退行し、
神への愛は、
疎外された性格構造に見合った関係へと変質している

偶像崇拝への退行は容易に見てとれる。
人びとは原理や信仰を失って、
不安におびえ、
前進する以外に何の目標もない
それで、いつまでも子どものままでいて、
助けが必要な時には
父親か母親が助けにきてくれるのではないか
と期待しているのだ。

(引用者中略)

 人間の姿をした神にたいして、
子どものようにべったり依存しながら、
自分の生活を神の掟に従わせようとしない
という点で、
現代は、
中世の宗教的社会というよりも、
偶像を崇拝する原始社会に近い。
いっぽう別の点では、
現代の宗教の状況には、
現代の西洋資本主義社会にしか見られないような、
新しい特徴
が見られる。
すなわち、
先に述べたように、
現代人は 自分を商品化してしまった
自分の生命力を投資だと感じ、
自分の地位や人間市場の状況を考慮しつつ、
その投資によって最大限の利益をあげようと
必死になっている

現代人
自分からも、仲間の人間たちからも、自然からも
疎外されている

最大の目標は、
自分の技能や知識を、また自分自身を、
つまり「人格のパッケージ」を、
できるだけ高い値段で売ること
である。
相手もまた、
公平で有利な交換をしようと血まなこになっている。
人生にはもはや、前進する以外に目標はなく、
公平な交換の原理以外に原理は無く、
消費以外に満足はない

こうした状況で
神の概念は どのような意味をもちうるのであろうか。
それはもとの宗教的な意味から、
成功のみを追いかける疎外された社会ふさわしいもの
変わってしまった

最近の宗教リバイバルでは、
神への信仰は、
より生存競争に適した人間になるための心理的な仕掛に
なってしまっている


 宗教は、
自己暗示や精神療法と組んで、
ビジネスの面で人間を助ける

1920年代にはまだ、
「人格を向上させる」目的で神に祈ったりはしなかった。
1938年のベストセラー、デイル・カーネギーの
『友を得て、人のうえに影響力をもつには』は、
あきらかに世俗的なレベルにとどまっていた。
当時カーネギーの著書が果たした役割を、
今日ではN・V・ピール師の超ベストセラー
積極的思考の力』が果たしている。
この宗教的な本では、
成功ばかりをめざすこと
はたして一神教の精神一致するのか といことは、
問題にすらされていない

それどころか、
成功という至上の目的は まったく疑われず、
神へのの信仰や祈りは、
成功のための能力を高めるためのものとして
推奨されている

(引用者中略)
現代において、
「神とともに歩みなさい」という言葉が意味するのは、
愛と正義と真実において神と一つになりなさい
ということではなく、
神をビジネスのパートナーにしなさい
ということ
である。
兄弟愛が、
非人間的な公平さによって取って代わられたように、
は、
いわば宇宙株式会社の代表取締役変わられてしまった


(エーリッヒ・フロム【著】/鈴木昌【訳】
『【新訳版】愛するということ』
(原題『The Art of Loving(愛の技術)』)
紀伊國屋書店、128-158頁)

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