中国留学日記No.31 | すみちゃんのブログ

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高校中退して、中国No.1外大に留学して3ヶ月でHSKに合格。そして、現地の芸大で胡弓を専攻。2年間留学しました。しかし、精神科に入院して真っ暗な20代。今は18年独り暮らし、彼と10年同棲して青春が来ましたが同棲解消。足の病気でリハビリ中。

私は2年間、中国に一人で留学していた。17才で大連に渡り、環境もよく、同じ日本人留学生もとても親切だった。しかし、大連の学校では、標準語の敬語で話すのが常識である。



私も半年まで、あんまり人付き合いが出来なかった。初めて喋り、ずっと行動を共にしたのが、貿易会社に勤める坂本和子さんだった。貿易会社とは思えないくらい個性的で、とても変わった人だった。また、大連とは変わり者、ユニークな人間の集団である。だから、私は皆と友達になることが出来た。自分も変わっているからである。



初めて喋った男の人は23才にして、東大3回生の永易くんだった。17才の私とよく話が合った。東大だけど、エリートではなく属に言う東大のアホ、という感じのユニークな人だった。私たちはよく、人の部屋などで会い、夜遅くまで喋り恋愛のようなことも言われたが、私は男女交際がしたくなかったので、知らないふりをした。



そして、80才の元学者らしい山崎さんの部屋に行って、昔の日本の話などを聞いた。これまた、泊まって行けと言われてビックリして、遅いから帰ります、と断り自分の部屋に帰った。私は大変硬派だった。決して男女交際をしようとしなかった。



そんな頭の固い私は、毎日毎日坂本さんと行動して、ずっと中国語で会話して、中国語を覚えた。実は大連では私は殆ど授業には出ず、旅行ばかりしていた。だから、息抜きも出来て鬱も一時的に治っていたのだろう。



雲南では、楽器を専攻したため授業はマンツーマンだった。中国人と一緒に授業を受けたこともあるが、簡単だからと言って断った。私は小さい頃からピアノを習っていた。だから、ピアノ室の鍵も貰って趣味で月の光などを弾いていたし、ピアノ講師の先生にも無料で授業をして貰った。



しかし、中国の歌を歌う気にはなれなかった。先生皆で集まったが、若い私は頭を下げずとげとげしい態度を取った。歌の先生、絵の先生、と紹介されても知らんぷりである。



私は大連を反省し、まともに授業を受けて旅行もせず、日本人も居らず延々と中国語を話し続けて鬱に戻ってしまった。日本語を話せなくてもいいから、一人旅に出れば良かった。また、楽器の勉強は辛いものだから、医学部にでも行けば良かった、等と考える今日この頃である。