私も半年まで、あんまり人付き合いが出来なかった。初めて喋り、ずっと行動を共にしたのが、貿易会社に勤める坂本和子さんだった。貿易会社とは思えないくらい個性的で、とても変わった人だった。また、大連とは変わり者、ユニークな人間の集団である。だから、私は皆と友達になることが出来た。自分も変わっているからである。
初めて喋った男の人は23才にして、東大3回生の永易くんだった。17才の私とよく話が合った。東大だけど、エリートではなく属に言う東大のアホ、という感じのユニークな人だった。私たちはよく、人の部屋などで会い、夜遅くまで喋り恋愛のようなことも言われたが、私は男女交際がしたくなかったので、知らないふりをした。
そして、80才の元学者らしい山崎さんの部屋に行って、昔の日本の話などを聞いた。これまた、泊まって行けと言われてビックリして、遅いから帰ります、と断り自分の部屋に帰った。私は大変硬派だった。決して男女交際をしようとしなかった。
そんな頭の固い私は、毎日毎日坂本さんと行動して、ずっと中国語で会話して、中国語を覚えた。実は大連では私は殆ど授業には出ず、旅行ばかりしていた。だから、息抜きも出来て鬱も一時的に治っていたのだろう。
雲南では、楽器を専攻したため授業はマンツーマンだった。中国人と一緒に授業を受けたこともあるが、簡単だからと言って断った。私は小さい頃からピアノを習っていた。だから、ピアノ室の鍵も貰って趣味で月の光などを弾いていたし、ピアノ講師の先生にも無料で授業をして貰った。
しかし、中国の歌を歌う気にはなれなかった。先生皆で集まったが、若い私は頭を下げずとげとげしい態度を取った。歌の先生、絵の先生、と紹介されても知らんぷりである。
私は大連を反省し、まともに授業を受けて旅行もせず、日本人も居らず延々と中国語を話し続けて鬱に戻ってしまった。日本語を話せなくてもいいから、一人旅に出れば良かった。また、楽器の勉強は辛いものだから、医学部にでも行けば良かった、等と考える今日この頃である。