「あの人は突然現れた。」
私の好きな食べ物、ドーナツ。しかし、あの店のそれはなかなか手に入らない。取り寄せは出来ないし、店も遠いからいつ行っても売り切れ。人気のドーナツなのだ。先日久々に買うことができた。最後の1個だった。すぐに次の客が来る。すれ違う。いい匂い…振り返ると店員と話している。残念そうにしている様子もなく笑いながら髪を耳にかける。「これを目当てに来たんじゃないのかなぁ?」「常連客なのかなぁ?」違うものを買って会計を済ませるまで窓越しに見ていた私に気付いていたんだろう。私に軽く会釈をして店を後にした。 大好きな味とともに、あの人の記憶が脳裏をよぎる。あの人に渡していたら…なんて馬鹿なことまで考え始めた。 そんなことも忘れかけた頃、帰りの満員電車であの匂いを嗅いだ。まさか…と思ったが、きっと人気のある香水なんだろう、と誤魔化した。 降りる駅が近づく。まだ匂う。近所なのかと淡い期待を持つ。電車を降りてもそれらしき姿は見えない。「そんなうまい話はないか」期待した自分が馬鹿みたいに思えた。 出会いの喜びと別れの切なさが交錯する。桜色が街まで染まる。新入社員が入ってくる。なぜかあの匂いも入ってくる。同じフロアの部署のようだ。毎日犬のように嗅いで歩いた。あの匂いのする、あの人とよく似た後ろ姿を追いかけていた。何度かすれ違う。記憶が曖昧で顔をはっきり覚えていない。「あ、あの、人違いだったらごめんなさい。あの店によく通う方ですか?」「え?た、たまに…ですけど…」「ほんとですか?!もしかしたら一度お会いしてるかもしれないんです。背格好が印象的で…」「ごめんなさい…急ぎますので。失礼します。」嫌がられたに違いない。何やってんだ、自分…もう終わりにしよう、やめよう。 2日後の昼休み。あの匂いが近づく。「あの…突然すみません。先日は話の途中で失礼しました。それで、あの店の名前が出たので、ファンなのかと思って…でもあのドーナツ売り切れてて…これ、あのドーナツじゃないですけど、お詫びです。」「え、そんな気遣わなくていいのに。でも折角だから頂くよ。ありがとう。で、しつこいようだけど、最後の1個を前の客に取られちゃって、店員さんとしばらく話してたことない?」「あの店の店員さんとは会話らしい会話したことないですよ。」「やっぱり別人かぁ。」「その方がどうかしたんですか?」「いや、似てたような気がしたから声かけたんだよ。いきなり声かけて、こっちこそごめんね。」たわいもない話で盛り上がる。気が付けば毎日のように一緒に昼休みを過ごしていた。二人は解けあって、デートも重ね、交際を始めた。喧嘩もしない、とても良い関係だった。会社では噂が立たないように程々に留め、社内でも適切な立場を保った。 同棲しようと持ちかけたのは私からだった。いいよ、と間を持たず返事が返ってくる。同じ思いだったのだろう。一月後、新しい街で二人で探した部屋で、新たな生活が始まった。 気付くのに少し時間がかかったのは慣れてしまっていたからだろう。「そういえば最近香水つけてないね。」「香水?」「うん、毎日つけてたじゃん?」「毎日??会社に香水なんか付けていかないよ!休みの日も滅多につけないし。」「え?じゃああの匂いは何??」「あ、もしかしてこれ?」彼女はボトルの口を開け差し出した。「あ!この匂い!」「これ、柔軟剤だよ。あの店から取り寄せてるんだ〜。会社で二人から同じ匂いがしたら噂になるでしょ?」 ある日、久々にあの店のあのドーナツを食べに行くことになった。電車で1時間、二人だと30分にも感じない。「あるといいなぁ。」「なくても前あげたやつ美味しかったっていってたじゃん。」「あの店はどれも美味しいもん。でもあのドーナツだけは格別だよね!」店につくとガラス越しに見覚えのある、そう、あの人が店員と話している。あの人はまたドーナツを買わずに店の出口に向かう。すれ違いざまに、あの匂いと一緒に何かをささやかれた。何を言われたかは分からなかったが、トレーには、あのドーナツが2つだけ残っていた。〜思いついたので書いてみました。フィクションです〜