駅の片隅に何時の間に来たのか、雲水姿の老人が座禅でもするように読書していた。
驚いたことにその容貌風采たるやまことに孤影飄々だ。とくに怪しげなる着物は、過去において黒かったという事実を危うく忘却させるくらい、古色を帯びたものであった。
やはりさきほどの鼻ボテ警官がただ汚い格好している判断からであろう、無遠慮な職務質問を始めだした。
「そりゃ、乞食だ、浮浪罪だ」警官のエキセントリックな声が聞こえる・・・・老雲水黙っていたが、急に・・・
「拙僧を乞食と呼んでもよろしい。そなた達も鎧で身を固めていなさるが、人間、みな裸になれば乞うて喰うて生きているのじゃ。今日まで全国津津浦々、浄財を集め禅堂建立のため行脚してきた訳だがそれが罪になるというなら、あえて言葉を呈そう。まず周の禮学からやって頂きたい。民を治めるには笛を吹き、銅鑼を叩いて祀りごとをおこなったのじゃ、それが治国統民の極致だったのだ。お解かり申したか・・」
老雲水の意外な反撃に警官は呆気にとられておる。
考えてみると蓬頭垢面の乞食エカキ、そして老雲水。これらを見たら世のどのような積極主義者でも、その一瞬に玉手箱は開かれショーペンハウエルの虜になるのではなかろうか。
「お前達の行く末は野垂れ死にだ・・・」警官は厄病神を振り払うごとく、捨てゼリフを残して立ち去って行った。
「雲水とは底の底まで落ちる行なんじゃ。乞食の心にまで下がって物乞いをし、己を最下等の人間の立場に置く事によって、そこで始めて人の親切や暖かさがわかる。大自然の摂理と恩恵に感謝する気持ちも湧く。人間乞食になるがよろしい。それには義務教育を終えた青年子女に一年程の放浪、あるいは歩き遍路になることを申し述べたい。つまり流転即成長じゃ」
この老雲水は人間は一度集団から離脱して、山河草木の自然界に自己を放つことが生の本源に帰する生き方だと言いたいのだろう。すれば我々大道絵師は一刻たり とも雨降って地固まる事はありえない。雨降って地流れるの心意気だ。
なんでもドイツの社会学者であるテオドル・ガイガーによると放浪者を政治や芸術、教育面における指導的知識人と並べて論じるべきだとも提唱しておる。
ハルマゲドンを経過する事なく、人々を後史文明に送りだすためにも、今、我々は生物の次元でモノを考えねばらぬ時期に来ているのではないだろうか。
乞食エカキは二日酔いのボンヤリした頭で溜息をつく。眼ヤニをこする。尻の下のクシャクシャの新聞紙の上でアクビをする。夜が明け雲が飛ぶ。乞食と乞食の別れはサッパリしたものだ。
「恙無きよう・・・・」の一言で南北隔てるのだ。
故に老雲水の未来のページがどんな事が書かれているのか俺は知らない。ただ迂曲転回していく俺の舟先はまだまだ怪しげな処へ没入していくのである。