「ああ非常の人、非常を好み、行い、これ非常、何ぞ、非常に死なむ」鳥人・幸吉 | 大道似顔絵描きのガチンコ人生史

大道似顔絵描きのガチンコ人生史

私は半世紀近く、大道で似顔絵を描いてきました。道路交通法やヤクザにも屈せず、今、尚、続けていられるのは次の言葉からです。

生きるというのは人に何かをもらうこと
生きていくというのはそれをかえしていくこと
by 金 玉先生 以上





「ああ非常の人、非常を好み、行い、これ非常、何ぞ、非常に死なむ」


上の言葉は江戸時代に空を飛ぶことをを夢見、実践した幸吉の墓標碑である。


幸吉は、1757年、備前国八浜(岡山県玉野市八浜町)に、旅館の次男として誕生した。7歳の時に父が急逝し、近所の傘屋に引き取られ、傘や提灯張りの技術を身につける。職人としての腕を上げ、岡山の親戚の表具屋へ移り、そこで弟と同居する。近くの蓮昌寺の境内で鳩を眺めるのが、楽しみであり、そこから空への憧れが生まれたようである。鳩を捕らえ、羽根の大きさ、体重等のデータを採り、研究する。そして、表具師としての技術を生かし、飛行機を作る。主翼を背中に背負い、両手で尾翼を操作する形式のもで、旭川の橋の欄干から、飛び降りて、滑空を試みた。30~40メートル程で落下したようである。それを見た人達は、妖怪が空からやって来たと大騒ぎとなり、奉行所は、「人のせぬことをするは、なぐさみといへども一つの罪なり」として、所払いとなる。1785年7月のことであった。そして、一旦、八浜へ身をおいた。
そこで、回船問屋の橋本屋の船に乗り、静岡に下りて備前屋と称して備前の雑貨を扱う商いを始めた。店は繁盛し、養子を得て、店を任せ、幸吉は名を備幸斎と改めて、名古屋時計を扱う店を開いた。手先の器用さを生かし柘植の入歯を作って評判になる。
一方、近くの安倍川に出て駿河凧を揚げ、その研究をしたようである。駿河に来て20年が経ち幸吉は50歳を迎えていた。再び、空への挑戦の気持ちがもたげてきた。そこで考えたのが曳航式の飛行機である。その飛行は成功したが、又、奉行所の知るところとなり、再び所払いとなる。そして、知己であった見付宿の香具師の親分大和田友蔵の世話になり、見付宿に一膳飯屋を営み、所帯も持って約40年間暮らし91歳で亡くなった。(1847年)
そのお墓が大見寺にある。戒名は「演誉清岳居士」(えんきょせいがくきょし)と記されいる。

夢を実現するには常識から逸脱しなければならい。