3、キャッチャーの魂(2)
そして土曜日がやってきた。
冬至がやって来ようとしている鎌倉の町は、午後五時でもまっ暗になっていた。
そして陽一は恵に連れられて、30坪ほどの小さな恵の家の前へとやってきた。
「ここが私の家だよ」恵がそう言って微笑むと、陽一は少し緊張して「そうか・・・」と言い、その小さな家を見つめた。
「大丈夫だよ。ウチみんな大歓迎だから」恵はそういうと、家の玄関のドアを開けた。
すると古い家の情緒ある香りがした。
「ただいま」
一番最初に出てきたのは、淳紀だった。
「姉ちゃんおかえり。徳永さんお久し振りです。どうぞ」と言って、陽一を家の中へと案内した。
今年の夏に甲子園を大いに沸かせた陽一の訪問に、山野家の人間は目を輝かせた。
恵と恵の母が台所で下準備をしていると、恵の父がビール瓶を持って、陽一に「さあどうぞ徳永君」と言ってお酌をしだした。
そんな父の行動を見て、恵は台所からとんでやってきて、父からビール瓶をを取り上げた。
「お父さん!陽一にビール飲ませないで!」
「固いこと言うなよ・・・」
しばらくすると、テーブルの中央に、鍋が置かれた。
それはグツグツと煮上がった水炊きだった。
ふたを開けると、昆布と鰹をあわせたダシの香りがあたり一面に漂った。
美味しそう・・・。
陽一は思わずゴクンと唾を飲んだ。
全員で「いただきます」を言うと、陽一は水炊きを食べだした。
そして思わず「うまい!」と言ってしまった。
恵は自慢げに「陽一、美味しいでしょ?これちゃんと隠し味もつけてるんだよ」
「隠し味?」
「昆布茶を少しだけ入れるの。するとこんな味になるんだ」
「そうなのか・・・美味しいよ・・・」
陽一は、あまりのもの美味さに感動を通り越して、すこし呆然とした表情を見せた。
すると恵は台所からラップをした皿を持ってきて「陽一、これも食べてみて。私の得意料理なんだ」と言って、お皿からラップをはずした。
皿の中には、ちょうど良い色のついた筑前煮がもられてあった。
陽一は恵に勧められ、その筑前煮を一口食べてみた。
「美味い・・・こんな美味しい筑前煮食べたことない・・・」
「陽一、お世辞いわないでよ」恵は嬉しそうに言うと「お世辞じゃないよ。本当に美味しい。料理のプロになれるよ」と言って、陽一は珍しく恵の事をベタ褒めした。
すると恵の父が少し酔っ払って「恵、料理の話はもういい。徳永君、そろそろ野球の話をしようよ」と言い出した。
「また始まった・・・」恵はそう言うと、あきれ返って席を立ちソファーに席を移した。
「徳永君はどの球団に行きたいんだ?巨人か?やっぱり巨人だよな?巨人と言ってくれ!」
恵の父は熱狂的な巨人ファンだった。
「そんな・・・俺どこでもいいですよ。第一プロに入れるかどうかもわからないですし」
「いいや!徳永君なら絶対に入れる、やっぱり巨人だ!巨人しかない!」
すると淳紀が「横浜ですよね」と言い出した。
淳紀は横浜ベイスターズのファンだった。
「淳紀!徳永君には巨人のユニフォームが似合うんだよ!」そう言ってムキになる恵の父親に淳紀は「絶対横浜だ!」と言って譲らない。
そして淳紀は「ねえ徳永さん、しいていえば何処でプレーしたいですか?」と陽一に聞いてきた。
山野家の男達は目を輝かせていたが、女達は呆れてソファーでテレビを見ていた。
陽一は「う~ん」としばらく考えて「何処でもいいんだけど、最終的にはメジャーでやりたいなあ」と言った。
「メジャー???」淳紀と恵の父は顔を見合わせた。
しばらくすると、陽一は部屋の片隅にキャッチャーミットが置いてあるのをみつけた。
「あのミットは淳紀のか?」
「はい。鎌倉二中で野球やってたんです。でも万年補欠で・・・」
陽一は席を立つと、キャッチャーミットを左手にはめた。
淳紀は寂しげに「俺、体が小さいじゃないですか・・・そして肩も弱いんです。監督がキャッチャー諦めろと言ったんですけど、キャッチャーが好きで・・・」と言った。
「どうしてキャッチャーが好きなんだよ?」
「試合の流れを全て知る事ができるのはキャッチャーだからです」
淳紀がそう言うと、陽一はしばらく黙っていた。
そして「淳紀、その監督の考えは間違っていると思う。キャッチャーに肩なんて関係ないよ」と言った。
淳紀は驚いて「えっ?どうしてですか?肩が強くないと盗塁刺せないでしょ?」と言うと、陽一はノートーとシャープペンシルを取り出して、数式を書き出した。
そして「淳紀、ホームからセカンドまで110kmの速度の球を投げるキャッチャーと、130kmの速度の球を投げるキャッチャーではどれだけ時間が変わると思う?」と淳紀に質問をした。
淳紀は陽一のいきなりの質問に思わず戸惑ってしまった。
野球でこんな事を聞かれたのは初めてだった。
何故なら今までの淳紀の野球環境はガッツだけだったからだ。
「答えは0.2秒。たった0.2秒だよ。この時間内に選手は何ができるかな?いくら肩が強くてもコントロールが悪ければ、タッチするまでに0.2秒の差なんて潰れてしまう。それに投げるまでに時間がかかりすぎても潰れてしまう」
淳紀は陽一の理論に思わず絶句してしまった。
さらに陽一は続けた。
「盗塁を刺す事で一番大切な事は、フットワークだよ。つまりなるべく少ないステップで投げる事と、タッチしやすい位置に送球する事だよ」
淳紀は黙って陽一の話を聞き続けた。
そしてそんな陽一の話しを、お父さんまでもが興味深く聞いた。
「昔ヤクルトに古田というキャッチャーがいたけど、実は彼は肩が弱かったんだ。だけどどうかな?盗塁阻止率はピカ一だった」
二人は思わず絶句してしまった。
二人ともキャッチャーは強肩でないといけないという固定観念に、ずっと囚われていたのだ。
「それにキャッチャーにとって一番大切な事は、肩の強さじゃない。大切な事は投手の力を最大限に引き出す事だよ」陽一はそう言って、淳紀に微笑んだ。
この陽一の言葉は、淳紀の今後の人生に影響を及ぼす事となる。
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