上杉謙信と上杉鷹山 | ツイてるヒロのブログ

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「運は天にあり、鎧は胸にあり、手柄は足にあり」(上杉謙信)

1988年頃、30代の若き著名な恩師に引率して、山形県米沢市の上杉神社に行った思い出がある。主祭神は上杉謙信公で、宝物殿には、重要文化財として、謙信がかつて信仰していた毘沙門天像や紫綾金泥両界曼荼羅図、太刀、服飾類100点以上が展示されており、上杉家家老、直江兼続が所用の有名な「愛」の錆地塗六十二間筋兜もあった。

上杉謙信

 

上杉謙信が漆を塗り甲冑を着せたまま埋葬されているといわれている上杉家御廟にも立ち寄った。そこには、第1代の上杉謙信から、第12代藩主までの霊廟がずらりと埋葬されており、厳かな雰囲気をかもしだしていた。普通、菩提寺などに立ち寄ると気分が沈むイメージがあるが、上杉家御廟所はむしろすがすがしさがあった記憶がある。そこには上杉景勝や中興の祖の上杉鷹山(治憲)の名前もあり、大義に生きた人物として名高い上杉謙信の威光が感じられた。

 

上杉家御廟所

 

桶狭間の戦いで織田信長の奇襲で今川義元が死去し、義元と縁を結んでいた信玄の嫡男である武田義信が、信玄暗殺に暗躍していたことが疑われて自害します。1567年、甲斐の武田信玄は今川家の勢力が衰えてきたこともあり、13年間に及ぶ今川氏真との同盟を破棄し、駿河へ武田の騎馬軍団が侵攻をするようになる。今川家は縁戚関係にあった北条氏康の協力を仰ぎ、武田領内への経済封鎖(塩留め)を開始した。好敵手の武田信玄が塩に困ったため、上杉家臣は相手を倒す千載一遇のチャンスであると謙信に進言します。これに対して、義を重んじる上杉謙信は「武田領民には何の罪もない。武田信玄に塩を送り、戦さは正々堂々と雌雄を決せばよい」として、「敵に塩を送る」という有名な言葉が出来ました。

 

 

 

 

 

テレビ番組で、山形県の小学校に掲示してある遺影で、歴代の校長先生と並んで上杉謙信が一緒に掲示されていたのを観たことがありますが、これほどまでに山形県では上杉謙信は愛される偉大な人物であったと驚かされたものである。(中略)

 

武田信玄像

 

 

「為せば成る 為さねばならぬ何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり」出羽国第9代米沢藩の中興の祖・上杉鷹山は、アメリカのケネディ大統領が、座右の銘としてこの言葉を知っていたことで、上杉鷹山が一躍有名になったと言われている。現在の日本の政治家の方々も、上杉鷹山の生き様のように日本を素晴らしく建て替え立て直ししていただきたいと思う次第である。(拙著 利他力より抜粋)

 

上杉鷹山