2014-02-04 13:04:11



日本(ひのもと)、古代はニッポンともニホンとも呼ばず、北東北の固有名称であった。我が国の神道の大祓祝詞に大倭日高見国(おおやまとひだかみのくに)と示される通り、倭の中心は岩手県北上地方なのであり、日本は岩手県北上地方を中心とする日高見国の略称である。本項は、その日本の名がいかにして南下し、大和を示す呼称に至ったかを解説する。

オオヤマトというのは西日本から見た北東北の呼称で、新ヤマトである近畿地方から見て、オオ、すなわち根源地を表す。私達が呼ぶにはオオユダノクニというのが、日高見国の別称である。今でも湯田や夏油の字で古代の呼び名が残る。そもそも大倭というのには、大委の字を当てるが、中国王朝が人偏をつけて倭と呼んだ。古代中国王朝は華夏、中原、上国、自居を並べ、中華とその外を弁別していた。
そして「獣」「虫」などの言葉で修飾したり、「狄」、「蛮」、「戒」などと蔑視した。
ところが、日本だけが「倭」と呼ばれ、「人」の字をあてがわれた。倭とは親しき盟友の意味である。

九州地方の中国からの呼び名は扶桑国であった。この扶桑の元字は扶蘇である。中国は大和の日弥呼を卑弥呼と見下しながらも、彼女を親魏倭王と呼んだのには、彼女が秦扶蘇の系譜であることを認めていたからである。

西日本の呼称はトミであった。登美と字を当てる。豊葦原瑞穂の国と藤原氏が改めて大祓に記載している。葦原の元字は千田(チダ)である。古代は、太陽や稲穂、神をあらわす言葉として「千」を使った。センとは呼ばず、チである。

トミを三島の神が治めていた。彼は秦氏である。高木神は高御産神の裔である。ヤタノ鏡自体が中国産である。

そのトミに飛騨高山から亡命してきたイザナギ一行。地震や疫病(ハンセン病)で苦しめられ妻を若くして失う。耶馬台国(ヤマト)という名称は石川県を起源とする。イザナギたちが持つ国称であった。

西日本を長女オオヒルメが治め、東日本を長男ツクヨミが治め、海腹をスサノオが治めた。この人たちは、まだメジャーではなかった。

オオヒルメとスサノオは仲が悪かった。なまじ歳をとっているだけで皇統位を姉がとったからである。末子相続が基本である古代に、これほど立腹することはなかった。

姉は高木神の息子オモイカネを夫にして、国会(高天ヶ原)を営んでいた。スサノオにはこれも腹の立つことであった。いつしか自分の子どもを皇統位にと、思っていれば、反逆者の扱いにされた。

笠を降り、三輪山の南東出雲の港を出発し、京都の亀山(亀岡)、一度は大陸を目指し新羅に着いた。しかし、農業に不向きなそこは早く離れ、帰ってきた場所が島根県出雲である。

帰り際にたくさんの人々がスサノオに従えた。その人々を「やたがらす」と言うのである。「僕の国は緑と稲穂に包まれて美しいのや」彼等は始皇帝縁の秦の臣民であり「あなたの国に行きたい」と強く希望した。

出雲の地域の人々の信任を受けたのは、灌漑工事を見事に成し遂げたからだ。八股に分かれて絶えず氾濫していた河川を整備してやっと稲作が出来るようになった。

やがて、オモイカネ崩御で、姉が悩みに悩んだ揚げ句にスサノオをトミに戻すことにした。責任感の強いスサノオであるから了承し、帰国しトミを治めた。

出雲は、スサノオの娘婿オオクニが運営した。このオオクニの気性が荒いのでトミからはワカヒコを送った。しかし8年経ってもワカヒコが戻ってこないのでおかしいなと思っていたらオオクニの娘下照姫と結婚していた。

これでは何にもならないと、高木神が建御雷を送りワカヒコを殺害した。

これが、大和と出雲の戦争の発端となった。

オオクニとしては、大切な娘婿の命を奪われて気が気でいられない。オオヒルメの5男熊野久須日彦は、雲行きをうらなってオオクニの娘出雲姫と離婚してトミに帰った。これがいけなかった。

オオクニの逆鱗に触れた。

オオクニは三輪山の戌亥のダンノダイラで熊野久須日彦を暗殺した。その方が次の皇統位であるはずが、一気に双国の仲は険悪となった。

熊野久須日彦の一門は、吉野の玉置に移居し、墓も移した。

熊野久須日彦の兄でオオヒルメの長男にオシホミミがいた。彼はこれらの恐ろしいいきさつを忌み嫌い、皇統位を継ごうとはしなかった。

このオシホミミの長男がニギハヤヒであり、次男がニニギである。兄は勇敢であり、ツクヨミのところに避難し修行し、日ノ本の極意を学んで帰国し、辿り着いた場所が東大阪の日下(ひのもとと書いてくさか)である。

【※ツクヨミが日ノ本の実権者】

兄は、また九州地方を治めに行った。勇敢であり、温情のある兄は九州を治める公孫氏らからも阿多氏(秦氏)からも愛された。戦争をすることなく、九州と大和が結びついた。

兄が九州から帰ってきて、弟に九州と縁談の話がきた。父母は、十種神宝のうち三つを弟に持たせた。弟は生涯帰ってこなかった。

彼は九州地方の王となったのである。

奈良県桜井市笠山を耶馬台国の中央として、筑紫九州を耶馬一国、南海道三重和歌山を耶馬二国、出雲を耶馬三国、東国関東以上を耶馬四国と称した。

兄のニギハヤヒはトミに帰ってきてからというものは、三島の子登美明国にお仕えしていた。登美明国は、ニギハヤヒの心根の正直さに惹かれていた。彼の妹はそのように真っ直ぐなニギハヤヒを慕いもうしあげ、二人は結婚した。

ここでやっと、イザナギ以降の存在がクローズアップされてくる。

ニギハヤヒは明国の権威をいただいて、はじめて後世に「皇祖」と呼ばれる存在となった。

一方ではまだ出雲との戦争が続いている。高木神は建御雷と経津主を送った。出雲の子建御名方は諏訪で焼け石を抱いてこの戦いに負けた。

長兄の事代主も、決断を迫られた。美穂ヶ崎を出て大和入りし、葛城山から計画を練った。しかし、いつまで続くかもわからない理不尽なこの戦争に疲れていた。

彼は覚悟を決めて、ひとり初瀬の白河を登って行った。するとそこに美しい女が居たので、安堵し、身のうちを話した。その女こそ、ニギハヤヒの娘クシタマ姫であった。

二人は結婚し出雲と大和の戦争が終結する。

しばらく時を経て九州地方の気候が乱れ、住む事が難しくなり、東征を行うより他無くなった。最初難波より大和入りを試みたが、三島の軍隊がたやすく入れてはくれなかった。

九州より出てきた佐怒彦は、兄の五瀬彦をこの戦いで失った。

一時退去して、次は紀伊半島を迂回し、新宮のあたりから大和に向かった。吉野では、やたがらすの人々が、応援してくれた。案内されたのは井光(いかり)と呼ばれる長い尾のある服装の人々のところで、その井光の娘が佐怒彦を大切にしてくれた。

そうこうしているうちにニギハヤヒが召集の詔を佐怒彦に出してきた。「吾が弟の裔なればその御徴を持て来られよ」

あるはずが、無いのである。悔しいかな九州においては中国の慣習で長兄が家督する。弟身分の佐怒彦が持てるはずがない。

井光の娘に再度相談に行った。「僕は弟身分で確たる徴は持っていない」娘は父に理由を話した。井光の族長が、持って行けと差し出したのが、『熊野久須日彦』の弓矢である。

佐怒彦は、これを持って熊野道から飛鳥~三輪へと続く磐余の道を上がって行った。そしてニギハヤヒが待つ星降(三輪山平等寺旧本堂跡)へと向かい、認知された。

事代主は、自分の娘イスケヨリ姫を三輪山の池で待たせ、吾が娘を口説き落とせるならば合格と言うことで、全く自身が運命に試されたとおり、佐怒彦をトミの皇居笠へと召集する。

佐怒彦は娘に気に入られ、養子(イリヒコ)となった。佐怒彦を記紀より初代天皇と改めて「神武天皇」と冠した。実際、第三十三代(神功皇后が入るので三十四代)推古天皇が、記紀における天皇初代である。【蘇我の女帝】、実際のところは推古は飛鳥の女帝であり、外交は斑鳩で聖徳太子が行っており、太子自らが親書で天皇と称した事実がある。

明国と安日は、彼ら若い者に国を預けて、弘前へと移居した。この道の途中で待ち合わせた場所を会津(あいず)と呼んでいる。

彼らは自らの国を日ノ本と称した。

青森は遠いのに、佐怒の子、カムナカワ、その子シキツ、は大和から「東征」した。そしてようやく4代目のスキトモが日ノ本の王と認められた。

これがため、現代懿徳天皇(いとくてんのう)と申し上げている。

5代目のミマツヒコカエシネの代から、大和に帰ろうとする動きが高鳴った。6代目ヤマトタラシヒコクニオシヒトを婿養子とする。

7代目のフト二は都を大和へと移すことを決定した。日ノ本の長老たちはこれは難しいことで自分たちの存続も危ういことだから進撃はやめなさいと仰ったが、フト二は従わず、出雲、南海道、筑紫、山陽、山陰を統一して回った。

フト二の第3子が箸墓のモモソヒメ。第8子末子が桃太郎。岡山は当時日本の最大の港であった。

埼玉を拠点とする8代目のクニクルの代で、三輪山を奪還した。箸墓等モニュメントはこの時の記念である。だから笠に向けて作ってある。埼玉は長男の大彦が継承し、弟が三輪山に立君した。

したがって9代目のオオビビは東西双方の日子として、現代「開化天皇」と申し上げられている。爾来、次ぎに来るのが、葛城王朝からの婿養子で、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと

またの名を御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらのみこと)といい、半島に至るまでを治め、この島国をはじめて無事に治めた。

なのでわたしたちの国では10代目を、ようやく統一の王としてお祀りしている。その方のお住まいなされた宮をシキミズガキ宮と呼ぶ。シキというのは中心の目。シマは国。当時の大和盆地が水で覆われていたので(ミズガキ)水上の城という意味である。

西暦663年8月28日。天智天皇の母方の故国である百済を復興させるための最後の戦いが朝鮮半島の白村江(はくすきのえ)で起こり、2日間の壮絶な戦闘となりました。日本3万7千人の兵と百済の連合軍は、中国唐と新羅の連合軍に大敗し、百済の王統を飛鳥に避難させているともがら、西暦670年には中国唐王朝と新羅に対して、朝鮮と日本は関係ないことを宣言し、国号を「委」から「日本」に統一し改めました。

日ノ本を自称し、航海技術に長けていた先祖は、優れた知能を持ち合わせていたのであり、子孫は、親たち先祖の威徳を偲んで、日本に生かされている命を大切にと思う次第であります。

国旗に関しまして、白地に赤丸が許された国は、我が国だけであり、これが意味するところ。新しい現行世界の出発点となった証であり、近しい国は、円で描くことが許されています。その次ぎに、覇権を成したる国が、四方八方への波線を描くことを許されており、最後に、横線という順番になっています。

本家があり、竈があり、さらに分家という関係です。




※持ち出しを禁ず ここで理解し、自分自身の歴史に刻むこと。



千田寛仁


 

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千田寛仁和尚