2012-04-05 09:08:32
 

東夷日本国史 The history of TIDA
 
大倭日高見国(正しい表記 大委日高見国)
首都 岩手県北上市水乞山
特徴 生活保障制度(国民に米を給付していた)
 
早池峰山から裾の水乞山 北上山地で高く縄文の時代より神山とされてきた山
 
 大倭日高見国(正しい表記は大委日高見国)。首都は岩手県北上市、中央神山は水乞山。元は早池峰山から下りてきた人々によって作られました。特徴は、社会保障制度がございました。例、国民へ米の給付。王は安東と呼ばれました。更木に始まり中央は、国見山、江刺、胆沢、平泉へと遷都しました。その一方の歴史において、神武天皇の子孫は安日彦を追い、懿徳天皇の代で日高見国王となりました。孝霊天皇の代で日高見国の長老らに反抗し、秩父に都を移しました。孝元天皇は出雲と共同し、関東の日高見国と相対し、那古野のさかえで合戦して、これに勝利し、開化天皇が奈良県桜井市の三輪山に立君し耶馬臺国の王となりました。開化天皇の名(若倭根子日子大毘毘命)に付く根子とは、日高見国の王の意味があります。耶馬臺国は6世紀に大和朝廷と改名し、天武天皇の代に国号を日本と改めました。元々日本(ひのもと)とは関東以北の国号であり、581年の日高見国軍の飛鳥襲来以後同盟を結んで、権威のあった日本を大和朝廷が使用し始めたという経緯がございます。
 


 
さて皆さんは、日本と言ったり大和というこの国の成り立ちをご存知ですか。
 
 


大倭日高見国(おおやまとひだかみのくに)では国民が等しく財を与えられることが原則であった。また、中央王高倉を中心に五王の制度を敷き、失政あれば王といえども即退位させられた。この国の本来持っている願い、祈り、歴史についてお話いたします。


我らの総本山は早池峰山(はやちねさん)と申します。瀬織津姫(せおりつひめ)という先祖が、我らの中心の神で、その神の起源は12000年前に遡ります。読んで字の如く、瀬織津姫は、日本列島の瀬すなわち太平洋側に降り集いし人々の集団の長をあらわします。我が国の神社の祝詞には、祓戸四神の筆頭として登場します。早池峰の池峰とは乳のことであり、早とは速とも書きます。覇という意味で、代表者をあらわす古代の言語です。古代は太陽を「チダ」東の「アガ」東の主「アベ」海を「ワタ」わたし「ワ」領土を「シマ」養子入りを「イリ」王を「ラ」「ハヤ」「ネコ」「ヒコ」女王を「サラ」皇子を「ミミ」「オビト」先頭・先駆者を「シリ」男性の大切なあれを「フグリ」そのものを「ホ」女性のを「ホト」最愛の人を「カエラ」など。面白いことに気がつきます。

我が国は、太古より祭祀を女性が司り、政治を男性が司るのが習わしでした。

瀬織津姫は戦前までは天照大神の本称とされ、大祓詞を読んで解るとおり、瀬織津姫は高天原(たかまのはら)の主宰者です。高天原というのは古代の国会と言う意味です。高天原は、早池峰山から紫波と更木に別れ、商業都として紫波、首都として更木が国家を運営してきました。皇命は早池峰の麓北上山地の高峰水乞山に上がり農業を監督、大倭日高見国は豊かでありました。

我らは、産土(ウブス,エビス,恵比寿,えびす,夷,戎,恵比須,蛭子,胡)と呼ばれ、勇者、覇者という意味です。岩手より世の方方を監督に行きました。これは、技術を伝えに行ったということです。京都平安京すなわち賀茂の母体のひとつ、島根県出雲国に文明を授けた少彦名(大名持すなわち大国の主の宰相という意)という神は我ら産土、岩手の人のことです。出雲の迦毛之大御神(
味鋤高彦根神=素戔嗚尊の孫、大国主尊の皇子)が葛城山へ来て後に京都を開いたのです。ゆえに平安京で最も古い神社を下鴨神社といいます。

約3000年前には、現在の岐阜県飛騨高山に行った人々は、石川県をはじめとする耶摩臺勢力と合体します。飛騨の位山一位の木で作った笏(しゃく)を飛騨の本家山本から賜って政治するは我が国の習わしです。飛騨の山本家。また、徳島の本家阿波忌部三木は天幕を張る機を織ります。徳島剣山麓の地域は我が国におけるカドの本拠地です。岩手を本家はじめとして、奈良和邇(丸)子・三島、出雲沖津、葛城、石川蘇我(菅)、山形和邇(丸)子、岐阜飛騨山本、徳島三木、大分宇佐宗像、熊本大伴大王、茨城鹿島、千葉香取、鹿児島薩摩島津、愛知熱田大宮司広瀬、琉球尚、等。それぞれに杜で祭祀を行っています。杜,森,守,盛,「もり」と名のつく所は怏々、祭祀を行う杜です。我が国の祭祠ごとはもとを辿って本家分家をつないでゆけば、日本の故地がどこで、成り立ちはどうで、ということが手に取るように解りはじめるのです。

大倭綜王、太陽祭司がおり、イザナギが多賀より、石川耶摩臺国と岐阜飛騨高山の連合国の女性イザナミと結婚して奈良へ進展、天照大神その最後としての布留ニギハヤヒが登美国を継承。妻の父綿津見(別称大山祇)瀬戸内海三島へ。神話の流れからすると九州をも所領した模様。その阿多の娘を嫁にもらい婿に行ったニギハヤヒの弟布斗ニニギの孫佐怒彦が井光いわゆる吉野首長尾の後援をいただいて、無事に大和入り。隼人阿多が秦であることで綿津見が秦であることが解り、綿津見の本社が筑前であることから九州が隼人や阿曇(あづみ)の王国であったことがわかります。また綿津見の別名が豊玉彦のため、明らかに九州の北部筑前福岡の王であることが伺えます。さらに、娘の名が豊玉姫、妹の名を玉依姫。ニニギが豊玉姫と結婚、入彦した。いかに当時の綿津見といい三嶋という王の権威が大きかったかということや、三嶋といい和邇の息子が三輪の登美明国といって幕末までの歴代天皇に崇拝されてきたことを。三輪の地が、東日本と西日本の中心拠点である理由、古代より日本中はもとより世界が繋がっているというあたりまえの眼目が開かれます。

したがって、歴史には、ニニギという大きな名を持ち出しているのだから、その皇子の名前ウガヤフキアエズをきちんと書いてくれないと。つまりニギハヤヒ大王の弟のニニギの孫が神武天皇サヌであるところ。

ニニギの妻、鹿葦津姫をコノハナサクヤ姫とするのは、東国日高見国を自分達だけのものとする大和朝廷の創作。二二ギは九州に婿に行ったとなっているわけですから。景行天皇の時代に日本武尊が日高見国に宝剣のメンテナンスを頼みに遠方出かけていること、釜石、鉄の文明が大倭日高見国のものだと知れば、なぜ大和朝廷なのかを、読んで文字のごとしと、如意するでしょう。彦火明、すなわち日矛がこの国に来る前から、日本に金属を加工する技術があり、縄文土器すなわちセラミックをも使いこなしていたわけで、神道が畿内発だとは大間違い。藤原鎌足公は、日高見国の最上生まれ、鹿島育ち、奈良に進展し、中臣を継いだことを知れば、よく事情が理解できるようになります。大和朝廷の母体が、大倭日高見国であること。それゆえ我らの神道には大祓祝詞があり、歴史を伝承しているのです。神仏を奉ることによって筋道が読めてきます。

そして、なぜ富士山か。それは、百済の一行が、日本での支配権を得るため。早池峰山では日高見国を讃えることになり、気まずいから。富士山の存在は景行の御代にも日本武尊によって確認されています。

富士山とは『藤山』なのであり、日高見国から干渉を受けたくない藤原が記紀を編纂する際に付けた呼び名。
 
母系が百済の藤原は自身が和邇物部と蘇我の子孫でありながら、中東、中国、新羅とツーカーのゑんで、大倭日高見国をおそれていた。今におもえば取り越し苦労。新羅関連の都が平泉で、百済関連の都が平安京。新羅の洛陽の仏が奈良の大仏。宇佐八幡宮は新羅のご縁。すなわち日本は秦のネットワークで結ばれています。伊勢神宮の元宮を千田と称するのは、自分達の名前を土地につけてるからで、伊雑宮は、ゑぞのみや。むずかしくないでしょう。大倭は眞字が大委(おおゆだ)。三輪明神は統合のシンボルでした。そして比叡山に移る。大倭と大和。水乞山と三輪山。ようは安倍山と蘇我山。千田は安倍。平泉と平安京。真言宗と天台宗。源は一つ。


筑前福岡の志賀島(しかのしま)が滋賀の語源であり、天智は滋賀の大津から筑紫に一時遷都して、白村江戦に赴きました。

滋賀の日吉(日枝というは勧請して後の社)の大山咋神(おおやまくい)の神が江戸城の鎮守であることは有名です。大山咋はスサノオの子である大年の子であり、山の所有者という意味です。秦家によって守られ、氏族の祖大酒王をあわせて祭っています。

比叡山御開山伝教大師最澄は、大比叡にニギハヤヒ大物主を三輪山から勧請し、もとの大山咋を小比叡に移しました。このことからしても、いにしえびとがニギハヤヒ大物主を我が国の王であると考えているかが明確です。

江戸時代まで農家においては大国主、事代主、大年の神、いわゆる出雲神が信仰されてきました。これも垂仁時代の出雲の国取りのなごりです。

秦にゆかりのある歴代の秦氏、そして太田道灌や松平徳川家は、出雲の神日吉大山咋神を祭り、仏教宗教者はことごとくニギハヤヒ大王を祭っている。これは、日本の皇祖が、ニギハヤヒ大王であることを意味し、いにしえびとはその意味が解っていたのです。

日本統合のニギハヤヒ大王をさて置いて大国主が、とする出雲教を仏教者はあやぶんで、密教という形で天照神道を秘めたのです。したがって日本仏教の極意を究めるということは、神ごと即ち歴史のマスターになるということです。
 
歴史を知らないと、古から秦のネットワークで日本が繋がっていることに気が付かずに土地や名前に迷うんです。秦は約3000年前から栄えて日本神話の創成期、イザナギイザナミの時代には秦家が奈良にも住んでいたのですから。登美とか豊とか申すのは秦との繋がりある由縁です。

さて、大陸と日本の関係が繋がる。ニギハヤヒの義兄明国は佐怒彦に権能が渡ったことで青森弘前へ隠居。その後皇子たちは明国の威光を求めて東北へ渡り、第8代の孝元が大和へ戻り出雲国の後援を頂いて三輪山を奪還、9代開化が三輪山に立君、日高見国から三輪に返り咲いた彼等の諡は、ゆえに根の国の日子、根子を冠していて、このときは日本そのものを日高見国と言った。第10代崇神は、大和三輪にてニギハヤヒ以後はじめて国を平定したのは側室豊即ち日弥呼のおかげあり。耶摩臺国笠のニニギが九州を護る為に耶摩壱国を興したのであり宇佐宗像家の豊が九州の王権権利者として大和を救いに訪れ、来てくださったのであり。夫の代理で治世したのでこのとき日本を耶摩臺国といった。首都は三輪山の麓、巻向である。日弥呼豊の墓を黒塚、箸墓は娘台与の墓。台与とは国の台所すなわち政治を預かったという意味。親娘の古墳は笠に頭を向けて並んでいる。大和神社の大祭では、神輿をかついで神社を出、黒塚、箸墓をまわり、大塚で休憩して萱生千塚をまわり猿田彦の墓に挨拶して戻るというコースをとる。それは、巡行で見える山が山で隠れる様子を通じて、子孫たちに星の動きに注意せよとのご先祖たちからのメッセージ。日弥呼のその後しばらくは物部や蘇我が国を守り、大伴大王家を母系とする中臣の時代となり。中臣こそは日弥呼の重鎮であり、正体は物部であり。東夷大倭の子孫百済皇族の亡命を受け入れ、天智の弟天武の御代に日本国号を使用開始。この兄弟の母宝女王(皇極天皇・斉明天皇)の父親の母が漢人。天智の子不比等は蘇我子を妻とし日本全国の先祖たちは藤原として生まれる。

縁を辿れば大倭から新羅、高句麗、百済へと繋がっていることがわかります。ゆえに朝鮮からは日高見国を阿羅伽耶と呼んで古代人は双国を往来していたのです。


高野山金剛峯寺、比叡山延暦寺の母体大三輪寺遍照院三輪山平等寺が復興した意味がお分かりいただけるかと思います。神仏習合。


比叡山は日本の大学であり、ここから、鎌倉仏教各派が創出されています。大三輪寺遍照院即ち三輪の平等寺がその元であり、日本仏教は密教を通じて、神道、歴史を教え伝えているのです。古代を教え伝える三輪神社たる三輪明神は明治以降現在はもうありません。そのため皆に日本史を教授しています。いずれの時にか目覚めた神官が、この口伝を学習し日本子孫が国史を整えるであろうと思います。

国の運営を考えてみても、大和の歴史の上に飛騨があり、その上最上部にあるのが日高見というわけです。天皇が江刺の米を食べていたのは、日高見が日本発祥の地だという認識があるからです。

有史以前はラと呼び、岩手でスメラミコトと呼び、岐阜で天照大神と呼び、熊本大伴氏が大王大君と呼び、飛鳥時代に天武が厩戸王より引き継いだ天皇号と新たかに日本国号を使い始めました。これが我が国の王の呼び名の変遷です。秋津神「アキツカミ」という佐怒(後世に言う神武天皇)以後の呼び名総称は、三輪山の神登美明国「アキラ」の下に集う意であり、アキラの権威を継承したことを示すものであります。「ラ」というのが最も古い王の呼び名だということがわかります。

また、天皇と言うのは飛鳥時代からの造語です。作ったのはそもそも天武の65年前の厩戸王豊聡耳、即ち聖徳太子です。彼は『女王の慣例』に随い、叔母を推古天皇として立君させます。ですから初代は読んで字の如く推古なのです。


実際我が国は東北において共和五王の制度を採っていたのであり、王であっても失政があれば退位させられました。

耶摩臺勢力の神こそは、白山菊理姫と呼ばれる神で、夫婦円満の神として有名です。白山妙理大権現龍天護法善神と呼ばれ、イザナミの叔母(乳母)です。

約2250年の昔、岐阜一体が大地震にみまわられ高天原を遷都することになりました。豊葦原瑞穂国、現在で言う奈良県桜井市へ高天原を遷都し、ここを嵩(かさ)と称しました。

葦原中つ国という呼称は、豊葦原瑞穂が確定するまでの名称です。したがって葦原中つ国というのは、ニギハヤヒと二二ギの父天忍穂耳の時代の嵩を表します。乎多と書いたりこの葦原(あしはら・ちはら・ひばら)の呼称も大倭を想起させないための大和中臣藤原氏の造語で眞字は千田です。千田というのは伊勢や和歌山に行けば解りますが、日神の意味。もうお気づきかとは思いますが、大物主の叔父大国主の名について、葦原志許(あしはらしこう)というはぐらかしを眞字すると千田志許[志許は彦=王]であることを正しておきます。葦原醜男と書いたり葦原色許男と書いたり、男が女の真似をすること、本来女性が行うべきの天照大神。祖母の位を継承した最後の天照が大物主です。それから言うと、叔母の地位を欲したのが大国主です。それで醜男。男が女の代わりをしましたよ、かるがゆえ玉置では今も巫女を男が勤めます。男なのに女っぽい、「志許」ようするに寛容、優しいという意味で「醜い」は昔は現在とは違う意味で使うわけですが、朝廷にさんざんな書き方をされてきた皇祖たちの姓が千田であり、これが和邇綿津見の跡取りとなって活玉依姫と結婚し、和邇子となった経緯です。ゆえに、我が国で神をあらわす千(せん)は千(チ)。
 
平安時代の御公家さんが、麻呂と自称するのは、いかにも和邇ですと言ってるわけで、和邇は藤原を賜ると同時に春日と名称を変えました。

相撲で「しこ」を踏むというのを地に足をつけて用意するという意味、「チ」に「アシ」を付ける(出雲が三輪の神名の眞字「千」を葦で隠す)これが出雲の国取りですよと。だから九州も高千穂と言うでしょう。千田は太陽、そして祭司のことですよ、千田を隠して稗や粟や稲、いわゆる葦、稲のことだけ残した出雲人。それでも出雲の祭司は千字を大事にしているようです。千と千、池と泉。岩手丸に一の紋と出雲六角の紋は兎と亀であり、鶴は伊勢。後ろの正面は奈良の三輪山。三輪山の奥は石川県。阿毎(蘇我)大陸をぐるりと巡って別れた兄弟姉妹が再び巡り合う。この島国はまさしく蘇民将来なりと。

大物主、葦原色許男、日本大国魂大神、布留御魂大神、櫛玉、櫛甕玉(大物主櫛ミカ玉命)、鴨大神、事解男命、豊日別、等々。 皇祖らに多くの名前をかぶせて、挙句に大国主と合祀するなどして、正体を隠してきましたが。1400年に渡る大和のパズルを解いたというわけです。文書の上では、籠の中の鳥を出したことになります。千はTだと覚えておくことが要(かなめ)です。大倭で日を千田と呼び、耶摩臺の阿毎が太、布都と呼び、大和豊・葦原でようやく日本が統合されるわけです。大倭では、財を撒いて活きる力を与えて生産が循環していました。それが、大和では租税を納めさせて保障を行わないものになっていました。貴賎に分けて分配を怠ったわけです。日の本の資本の考え方は、公平に財を分配し、農工商業を営み、分けてまた増やすという案配ですから、平等な仕組でした。太陽と月と雨と山川草木。神道は、大祓から忌むべき罪の表記と、中心の部分である布都祝詞を外しました。布都祝詞は平等社会の実践です。なので、布都祝詞事を宣れ、のあとは、「平等に皆に活きる力が与えられますように」という祈り、かく宣らば神は喜び皆幸せとなると、説いてあるわけです。しかるに、神道には仏説般若心経に説かれた事が、備わっているのです。神道を拝することはいにしえへの先祖崇拝。仏道を行じるのは、その延長今。内外の八百万の神々が、あるべきありようの道を聡てくれます。

粟嶋坐神乎多乃御子(同嶋坐神乎多乃御子)あはしまにいますかむをたのみこ、なんて書かれると、「オタクの皇子」のようで、何これやめてくれないか、と思うわけですよ。日本に住む太陽の皇子の意味。倭姫が三輪神社から持ってこられた御神体は、つまり天照皇太神は、粟嶋坐神千田乃御子とお呼びして、はじめて姿を現してくれるわけです。淡でも粟でもモチロン同じことで、沖津辺津鏡。八握剣を以て清きこと教え、生玉命を活かし、死返玉命は長く、足玉たるを知り、道返玉いにしえを慕って、蛇比礼遺伝子をもどし、蜂比礼滋養高めて、品物之比礼すべての子孫に光あれ幸せにせよ。十種神宝、皇統位継承の意味。三種というのは弟ニニギに兄に万一のために持たせたそのうちの三つで本当は十種類。
 

大昔は黒赤黄白青、五族仲良く暮らしていたわけです。シータと言ったりチュラと言ったりティーターン、タイタンと言ったり、そろそろ伝承をまとめてみませんかということです。太陽信仰ようするに、まことの感謝に戻るべきではありませんでしょうか。自然に感謝する、親に感謝する、嫁に感謝する、夫に感謝する、子どもに感謝する、隣近所に感謝する、地域に感謝する、何にでも感謝する、ありがとうありがとう、こんにちわこんにちわ、坐してよくこころをととのえて。自然観測をして、生命を守りながらね。



新しい国嵩を後に大和(やまと)と称し、祖国日高見を大倭(おおやまと)と称します。



高校生の時、岩手の宮古の長老たちは沖縄の久高島や大神島あたりを宮古島と称すことに大分反対したのです。宮古というのは三陸のことですから、分家が本家を越えて命名することはありえないという話だったわけです。日本の宮古というのは、岩手県の宮古ただひとつです。

折角だから伊勢神宮のことを。垂仁の娘、皇女倭姫命は稲を御料とし、千田の地に伊雑宮を建て、真名鶴を大歳神として佐美長神社を祀ったのが、伊勢神宮の始まりであると。千田(ちだ)というのが耶摩臺国時代の太陽の呼び名で日高見国に出でたことを知っておけば吉祥です。わたしは平等社会を祈るものであります。

 

  608年聖徳太子が隋に送った親書に、「東の天皇が敬いて西の皇帝に白す。」とお書きになられたのが、天皇号の最初で、天武天皇がこれに順い、歴代の大王を天皇で表し、聖徳太子を摂政と書き換えて曾祖母の額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)を推古天皇と古事記に表しました。聖徳太子も天武天皇も千田家のご先祖様なので、その編纂は大した問題ではないです。左は順を追って系統を示した家系図になります。

 


 
 
護摩祈祷
 
不動真言の意味

ノウマクサンマンダ バサラ センダンマカロシャ ソワタヤ ソワタヤ ウンタラタ カンマン
南無三界萬霊薬師十二神将千田摩訶盧舎蘇秦弥蘇秦弥祈太多良(弓の)緩慢(徳島弁・たおやか)

(偉大な光によって12の人体機能回復し病が早く平癒しますように帰依します。)

---熱と細胞,遺伝子の関係を空海弘法大師は説いた・分子シャペロンの応用が護摩祈祷---

減量(食事7分目)、熱量(37度程に保つ)、御神酒(甘酒)、薬草(菊・桜・蓬・葵)、玄米味噌汁酵素、鉄カルシウム亜鉛ヨウ素、必要以上の砂糖や塩を控えて酢を摂り汗を流すべし。そして『座禅』。昔はどうやって治してましたかということです。例えば抗生物質の前はファージ治療。そういう基本に気がつく人と、ない人、それが信仰心があるか無いかという分かれ目です。この日記に辿りついたあなたは、『あるのです』。

勝手な解釈をしても設計図がないのと一緒ですから、完成しないんですね。やっぱり人と人の会話が大事なんで。なんでもその道の先生に聞いて行わないと。
それでも、物には時期と順番と丁度良い分量があるということです。肝心な話と言うのは文字では残せない。あれがいいこれがいいという話ではないです。





水乞山と、三輪山の変遷については、文中に記します。




大祓詞(おほはらへのことば)神拝詞(神社本庁蔵版より)

高天原に神留り坐す 皇親神漏岐 神漏美の命以て 八百萬神等を神集へに集へ賜ひ 神議りに議り賜ひて 我が皇御孫命は 豊葦原瑞穂國を 安國と平らけく知ろし食せと 事依さし奉りき 此く依さし奉りし國中に 荒振る神等をば 神問はしに問はし賜ひ 神掃ひに掃ひ賜ひて 語問ひし 磐根 樹根立 草の片葉をも語止めて 天の磐座放ち 天の八重雲を 伊頭の千別きに千別きて 天降し依さし奉りき此く依さし奉りし四方の國中と 大倭日高見國を安國と定め奉りて 下つ磐根に宮柱太敷き立て高天原に千木高知りて 皇御孫命の瑞の御殿仕へ奉りて 天の御蔭 日の御蔭と隠り坐して 安國と平けく知ろし食さむ國中に成り出でむ天の益人等が 過ち犯しけむ種種の罪事は 天つ罪 國つ罪 許許太久の罪出でむ 此く出でば 天つ宮事以ちて 天つ金木を本打ち切り 末打ち断ちて 千座の置座に置き足らはして 天つ菅麻を 本刈り断ち 末刈り切りて 八針に取り辟きて 天つ祝詞の太祝詞を宣れ


此く宣らば 天つ神は天の磐門を押し披きて 天の八重雲を伊頭の千別きに千別きて 聞こし食さむ國つ神は高山の末 短山の末に上り坐して 高山の伊褒理 短山の伊褒理を掻き別けて聞こし食さむ 此く聞こし食してば 罪と言ふ罪は在らじと 科戸の風の天の八重雲を吹き放つ事の如く 朝の御霧 夕の御霧を 朝風 夕風の吹き払ふ事の如く 大津辺に居る大船を 舳解き放ち 艫解き放ちて 大海原に押し放つ事の如く 彼方の繁木が本を 焼鎌の敏鎌以ちて 打ち掃ふ事の如く 遺る罪は在らじと 祓へ給ひ清め給ふ事を 高山の末 短山の末より 佐久那太理に落ち多岐つ 速川の瀬に坐す瀬織津比賣と言ふ神 大海原に持ち出でなむ 此く持ち出で往なば 荒潮の潮の八百道の八潮道の潮の八百會に坐す速開都比賣と言ふ神 持ち加加呑みてむ 此く加加呑みてば 気吹戸に坐す気吹戸主と言ふ神 根國底國に気吹き放ちてむ 此く気吹き放ちてば 根國 底國に坐す速佐須良比賣と言ふ神 持ち佐須良ひ失ひてむ 此く佐須良ひ失ひてば 罪と言ふ罪は在らじと 祓へ給ひ清め給ふ事を 天つ神 國つ神 八百萬神等共に 聞こし食せと白す

 

三輪山:日本国大和の根源地、三輪王権、大和王権、大和朝廷の母体
三輪山から初瀬、飛鳥、橿原藤原京へと遷都。難波宮、稲淵宮、大津宮、筑紫宮、蘇我の一族を亡き者とした天罰がくだり天智(藤原不比等の実父)が遂に逃げられなくなり白村江戦(現在の錦江近郊)。負けましたということで聖武天皇が信楽宮に避難し、都の構想を練って平城京で光明遍照毘盧遮那佛を大仏として祀る。すなわち洛陽新羅の仏。いにしえの人々は当然絆を大事にしており中国や新羅は日高見を外から守る国々。大仏は日高見のこと。(奥州の商人金売橘吉次は義経遮那王をつれて京都から奥州へのお供をしました方です。大仏に使った金は吉次さんとこの先祖が大仏建立のために奈良に運んだものです。金を大和に納めた持ち主は千田(安倍)、管理が丸子連、中継ぎが金売であった。日本の二大都市たる朝廷と奥州を往復していた金売氏。金売氏とは百済王の子孫。聖武天皇の娘は、安倍を尊び阿倍、倭根子を称しています。そして恭仁京、長岡京を経て百済を母系に保つ桓武天皇が弟早良の反対を押し切り平安京に遷都。都を二つも運営してられないので僧侶をしている弟の早良に長岡京を任せるが、藤原種継が突然亡くなられたことで早良は謀反の罪を着せられて徳島に行かされたという。1200年前に坂上田村麻呂が征夷大将軍を補任。800年前に源頼朝が征夷大将軍を補任。140年前、首都を江戸に奠都。東京と号す。
 
 
一宮、三輪。
 
三輪山:登美明国という人がいて、この王が三輪山の本当の王だったりします。明国(アキラ)が大物主の位を布留(ニギハヤヒ)に譲ったわけです。その権威を佐怒彦(サヌ・神武天皇)が受け継ぐ。


水乞山:大和の母体、大倭日高見國高天原 陸奥(みちのく)の中心
水乞山から国見山、胆沢へと遷都1200年前大和朝廷と衝突、日高見のアテルイ将軍は大和朝廷の裏切りによって亡くなる。その後、胆沢から江刺、平泉へと奥州遷都、800年前、千田の後裔藤原氏の庄司平泉将軍佐藤基治娘浪ノ江と源義経が結婚。奥州義経軍と、大和朝廷頼朝軍が衝突。奥州戦争。千田は敗退。基治爺、伊達にやられる。これにより伊達家によって、東北の中央は平泉から仙台へと移る。同時に奥州国は大和朝廷に併合となる。


大和と言うのは、京都平安京の桓武大和朝廷陣営が、元の大倭(おおやまと)を併合してからの呼称です。日高見国の2200年ほど昔の中央は、青森県弘前です。現代第9代開化天皇と呼ばれる王は、日高見国の方です。後々の聖徳太子の時代までは産土語が東国の主流だったのですから、まさに和を以て貴しと為すですよ。

12000年前の太古は早池峰山を始めの高天原として、子孫が紫波、更木ふたてにに別れ、更木で統合。
 
古代の王墓の作り方は、らくだのこぶの形。
これが古墳作りの原形となっています。この国のはじまりがどこでということをみますと、世の中は親戚で満ちていることに気がつきます。前方後円墳は、古代の縁を繋いでいる鍵。


日本創世記】私著「日本の朝日」

「 4千5百~4千9百年程前には、現在の東北地方に国が興って来ました。まさに高度なシュメール(皇)文明が逆導入された時期です。津軽で阿蘇辺王国が起こり、近畿に邪馬台王国、筑紫に熊襲王国、出雲に出雲王国、関東に日高見王国、と、続々と王国が建国されて来ました。ユーラシア大陸、朝鮮を経由して来た人々が、石川県(加賀)の三輪に移住し、100以上ある小国を統一して耶靡堆国(やまたいこく)を建国しました。

 耶靡堆日子(やまとひこ)とも阿毎氏(あめ)とも言われる初代王は、耶靡堆国明日香(やまたいこくあすか)の箸香(はしはか)の山を三輪山(みわやま)と名付けました。
 その後、加賀(かも)の三輪山神を現在の奈良県桜井市へ移し、これを三輪山大神として、その土地の大杉に住む白蛇を大物主神(おおもののぬししん)として祀りはじめました。


(三輪山は、秋田黒叉山同様、日本のピラミッドです。)
 この時に耶靡堆国(やまたいこく)は国号を耶馬臺国(やまたいこく)と改めました。
 この下に筑紫九州を耶馬一国、南海道三重和歌山を耶馬二国、出雲を耶馬三国、東国関東以上を耶馬四国と称しました。後に耶馬台族の安日彦王が耶馬臺国中央の王になり、合わせて五人の王を立てて政治を行いました。

 多くの小国の族長(王)がこの時代の動きに敏感に同調して、倭国とも称される耶馬台国は、急激に頭角を表してきたのです。時代は安定したかに思われました。
 ところが、紀元前220年頃、筑紫日向高砂族の佐怒王(さぬおう)が邪馬台国へ東征を行い、再び戦乱の世となりました。まず、佐怒王は、日向王兄の五瀬彦を送り込みました。7年もの攻防戦でも決着がつきませんでした。この間に日向軍は、出雲族と合流して戦力を高め、耶馬台軍を後退させました。

 8年後、佐怒王と五瀬王が難波に上陸しました。
 五瀬王は、この時、長髄彦王(登美明国)らの耶馬台軍によって致命傷を負い亡くなられましました。
 そして佐怒王が将軍となりました。
 この後、難波からの上陸が極めて不可能だと考えた日向軍は、紀伊半島を迂回し、熊野を通って耶馬台国を攻めました。深傷を負った長髄彦王は戦いに敗れ、東国へ一族を連れて退去しました。安日彦王もまた、東国へ同じく退去しました。佐怒王は邪馬台国を攻略して立君し、神武天皇大王として大和王朝を興し、日本紀元を称したとされていますが、それはこの時期からおおよそ30年ほど後のことです。

 一方、長髄彦と安日王は福島の会津で再開し、再起を願って東日流(津軽)へ逃れ、安日王を中央王として立君し、三輪郷(青森県弘前市)を中心に全く邪馬台国と同じ五王の制度を布きました。
 ここに秋田の熟族、岩手の麁族を併合、長髄彦王らが津軽に来る前には晋の時代に敗れた遺臣、その一族が大陸から稲を運んでいて、津軽の日之本国荒覇吐王朝は豊かでした。

 日之本国荒覇吐王讃日は自ら支那に赴いて馬を導入しました。
 支那へ渡った際、支那東周王朝安王と友好があって、安東将軍と呼ばれたといいます。
 騎馬軍を編成、秋田の石油を軍用に用いるなど新技術を駆使しました。
 日之本国荒覇吐王済糖彦は、この騎馬軍を5万騎に膨らませ、日之本国荒覇吐王武波日の時には念願の故地邪馬台国(倭国)を奪還しました。

 孝元天皇の邪馬台国立君を良く思わないでいる奥州各地の荒覇吐族長老達は坂東(関東地方)に興日彦王を立君し、彼を日之本荒覇吐王国正王としました。
 これに激怒した武波日彦王は、荒覇吐族を脱して、自らを日本天皇と新め、(出雲、南海道、筑紫、山陽、山陰)を統一して王国を形成しました。

 坂東の日之本国と出雲の日本国が激しく紛争を繰り広げたといいます。

 またこの合戦の地が邪馬台国(倭)の那古野、現在の名古屋です。
 つまり、名古屋が西国と東国の堺でした。

 孝元天皇の子供がやがて父のように邪馬台国を再び統一しました。
 三輪山に即位したその人物は後に、開化天皇と呼ばれ民衆に親しまれる存在です。」

 この三輪が石川、奈良、青森、奈良、九州と遷都を続けているわけですな。

 北海道の函館でも9千年前の漆器が見つかる、あるいは何万年前の遺跡が見つかるなど。


 但、地質では600万年前の極移動が豊岡玄武洞で確認されています。地球の軸に変化があったようです。糸魚川のフォッサマグナにては日本列島の本州がその影響かで二つに分断されたようなことも伺えます。琵琶湖もおもしろいもので、年間3cmずつ移動しているようですね。もとは三重県の山田町あたりにあったようです。私たちは100年足らずの短い命で気がつかないけれども、この海が地が、生きている証。地はまこと亀のように悠久の時を旅してるのです。

 いにしえびとが自然を畏れました。空に目を向け天文観測していたのは産土物部の天文学者で天勝国勝奇魂千憑彦命(あまかつくにかつくしみたまちよりひこのみこと)と称え奉る天津甕星天香香背男(あまつみかほしあまかかせお)です。藤原側では物部の功績を讃えることはできないため、古事記では山田の中の案山子(かかし)として蔑した。「久延毘古は、今に山田の曾富戸と言う者なり。この神は足は行かねども、ことごとに天下の事を知れる神なり」と。

 日高見国の産土人、物部は、その名のとおりあらゆるものを研究する科学者でありました。特に星の動きと地震、マグマについて、研究していたのです。

 ここ大和盆地は大昔は海でありました。広海(ひろみ)と呼ばれていたのです。三輪山もぽつりと浮かぶ島のように見えて、山之辺の道が砂浜の海岸線だったのです。亀が淵という地名は全国的にあります。この亀が淵が何を意味してるのかというと、水を抜くための水路を作ったと言うことです。大和盆地から大和川に海の水を流して、作られた盆地がこの大和盆地です。現代人ができないようなことを古代人がやっていたという一例です。

 崇神9年に、沼地であった大和盆地の水を抜いたのは、、高田川と一緒になった曽我川、大和川・飛鳥川など盆地内を流れる河川のほとんどが合流する地点の広瀬大社であることが判っています。宮司の樋口家もニギハヤヒの末裔物部です。嗚呼、皆皇祖ニギハヤヒの末裔ですからね。和邇丸子物部を蘇我が継ぎ、蘇我を藤原が継いでいます。日本4千とも7千とも言われる氏姓が不比等の子どもたちから生まれているんです。

 大和盆地は、聖徳太子の時代まで葦の茂る沼地の多い地だったのです。百済の船が今の三輪山平等寺大向寺橋まで上がってきたというのですから、現在よりも川の幅や水かさがあったということになりますね。三輪山の南東の出雲の地が元の港で元出雲です。いにしえびとは、そこから亀岡(旧亀山)へ向かったのち和歌山の千田の港から新羅の地に至り、秦の遺臣たち(八咫烏)とともに帰国して島根の出雲を開いたわけです。

 大和の飛鳥に亀石なる岩があり、この岩が逆を向くと、大和が水没するので注意せよとのいにしえびとからの言い伝えがあります。これが極移動を観測していなさいという先祖からのメッセージです。

 三種の神器の意味は解りますでしょうか。十種神宝のうち何かの時に為に授けられたのがそのうちの三種です。玉とは石で、日高見国の新潟をあらわします。2世紀ちかくまで戦争をした形跡が無いように、我が国は比較的におだやかでありました。この農耕石の文化。これをあらわしている『宝玉』

 朝鮮半島からきた新羅の皇子、天日矛は播磨から揖保川をあがり、伊和大神(大国主)と対決します。豊岡市の出石神社に祭られている神です。大国主は天日矛に負けて但馬を日矛に取られてしまいます。

 確かに二人は戦ったのですが、日本の先祖のおもしろいところは、ころし合いではなく、最後はとんちで決めるという点、フェアなところです。(まあ、出雲と三輪のたたかいに関しては壮絶なんですがね、それ以外はほっこりしています。)なかなか勝負がつかないので二人は但馬と播磨の堺にある藤無山で高い山の上から3本ずつ黒葛を投げて、落ちたところをそれぞれの領地としようと決めました。日矛のは3本出石に落ち、大国のは城崎、八鹿、宍粟郡に落ち、播磨を大国が、但馬を日矛が、それぞれに治めることになりました。


 日矛は、最初は鉄を作るためにタタラを探していました。そのうち、生野で銀山を開発したり、丸山一帯を開発して農業をいたしました。この朝鮮半島からの鉄の文化『宝剣』

 中国から渡ってきた人々は、愛知あたりで「なめ」とつく地名に住み、秦の徐福の伝説なども、紀伊半島から東海に多くあり。中国からの青銅文化これが『宝鏡』

 我が国の三種という意味での御徴は、3国を統べるという意味合いでもあるわけです。三国共和の国というべきでしょうかね。


 琵琶湖に浮かぶ鳥居で有名な、白髭神社は、朝鮮王族鬼室氏の神社で全国の白髭神社の本社であります。神社のある日野町においては、2万人の朝鮮人が飛鳥時代にきています。奈良においても、秦や駒と言われ、多くの人が大陸からきています。

 
 もとは、日本、朝鮮という概念では無く、ツーカーであったわけです。

 日氏釈尊は『人は生まれによって貴きにあらず、但行いによってのみ貴くもなり賎しくもなる』と説いています。

 世界はひとつであると思えば
 
 
 
 大秦国で金と絹が等価だったといわれます。今になってその真価がわかるわけです。金は天蓋(天幕)を表し、絹は粉にするとお薬になるわけです。鈴と雷を表した紐と賽銭の箱。お金を喜捨して願い事。手を合わせて、願い事の初心を保つ(つくる)わけです。神社の場合は、祓いが基本で祓い清めて、守護をいただくという按配です。社寺を尋ね歩くこと観光は心のレジャーといえます。
 
 
 
  物部の勿は光
 
 
 
 神宮の最初は 石上 布留を祭る
 

 

神社---日本国にある総ての神道神社を表す

 

神宮---天照大神(主にオオヒルメムチ)を祭る 即ち古史以前からの神を祭る神社 第一坐 伊勢神宮(創建は外宮が一、内宮がニ)  元は三輪皇太神宮 (即ち三輪明神は廃仏毀釈によって明治初年に消滅に付き、現在は伊勢神宮内宮が第一坐となっている) その元は現在もあり、笠山荒神である

 

神宮は、天皇関係が後にそうである

平安神宮 吉野神宮 橿原神宮 明治神宮 等

 

大社---那古皇子(スサノオ)出雲系 あるいは天武天皇並びに后持統天皇以後藤原関係の神社 第一坐出雲大社

 

稲荷---豊、即ち女王卑弥呼関係、秦の神を祭る神社 第一坐 伏見稲荷大社

 

八幡宮---新羅、応神天皇、源氏関係が祭る神社  第一坐 宇佐八幡宮

 

天神社---菅原道真公関連の神社 第一坐 奈良県桜井市初瀬 與喜天満宮


 



仏には桜の花をたてまつれ わが後の世を人とぶらはば

願はくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ

東の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ

わが君は 千代に八千代に 細石の 巌となりて 苔の結まで

後の世も また後の世も 廻り会へ 染む紫の 雲の上まで



神道ごとも仏教ごとも、大事なのは神仏のメによって生かされているんだと気が付くこと、住むところ行くところ見るもの取り入れるもの、選んでどうぞ安心の暮らしを。




染井吉野の桜花が遅咲きの年は水無月に用心。

               千田 寛仁 謹書


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