最近、とても気になることがある。
さすがに、指摘させていただきたいことがある。




芦田愛菜ちゃんがテレビに出すぎじゃないのか・・・



子役という立場、バラエティの演出上、チヤホヤされるのはある程度仕方ないと思う。
けれど、ここ最近の出ずっぱりの状況について視聴率稼ぎに彼女を使っているとしか思えず、大人の事情を理解しない本人はその要求に応えるだけ。
しかも結構楽しそうに演じている。

僕はこの娘についてどういう批判するつもりはない。
ただ、どうしても一人の子どもを持ち上げてチヤホヤする演出は受け入れがたい。
「可愛い」と思えるうちはまだ良かったのだが、あまりにこの娘に対する熱が過剰過ぎて将来を心配してしまう。

まだたったの7年しか生きていない中で、沢山の大人が可愛さだけを求めて(結果的にお金を求めて)群がるという構造は健全ではない。
7歳にしては受け答えがしっかりしすぎている。
同世代の子どもとある程度接する中で社会生活を少しずつ覚えていくような自然な過程を辿らないと、思春期を過ぎたあたりで歪みが出てくるのではないかとの懸念がある。


そう、この記事は僕の余計なおせっかいである。
昨年の『Mother』で注目され、『マルモのおきて』で今年大ブレークを果たし曲もヒットした。
しばらくは芦田愛菜ブームが続き、紅白出場も堅いだろう。
だが、彼女に群がる大人たちに問いたい。



このブームは今年くらいで終わらせとけよと



本人のためにも・・



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ここからは長くなるので、興味がある人のみ、ご覧ください。
(アダルトチルドレン問題について述べています)


もう少し、芦田愛菜ちゃんについて書きたいことが出てきたので書いてみる。
僕が彼女を通して社会に向けて訴えたいことだ。


アダルトチルドレンという言葉をご存じだろうか



人が機能不全家庭で育ったことにより、成人しても内心的なトラウマを抱える人たちのことである。
決して、「大人になりきれない未熟な人」という意味ではない。
そしてアダルトチルドレンというのは病名でもない。
幼少期を子どもらしく過ごすことができなかった人たち。
たとえば、両親の不仲、虐待、親の過保護や過干渉。

さらに深く述べると、親または大人が無条件の愛ではなく、子どもに「条件付きの愛」を求める場合に問題が深刻化する。
「条件付きの愛」というのは「しつけ」と混合されるのでどういう行動がそれに該当するかは明確には言えないが、虐待など社会的に問題にならない例でいえばたとえばこういうことだ。


①両親は自らの子どもを「理想の子ども」に育て上げようと努力する



②愛情を受けたいがために子どもはそれに必死でこたえる



③両親は喜ぶ、そして周りの大人も喜ぶ



④子どもは両親、または周りの大人がどうすれば喜ぶかを知り、そうなるように行動する



⑤大人は喜ぶ



⑥子どもはその期待に応え続ける




幼少期に常に大人の顔色をうかがい、自分を殺して生きると自我が育たない。
ゆえに、大人にとっての「いい子」にはなるが、成長の過程でつまづくことが多い。

何故なら、自然な成長過程において、③がまず最初になくなるからである。
周りの大人たちが喜ばなくなるのである。
今までと同じことをしても喜んでもらえない。もっと努力する、報われない。
そのときに孤独感や虚無感を抱きやすい。
将来に精神疾患を抱えることも多く、現代社会において大きな歪みを生んでいる。


このような家庭(一般に機能不全家族という)は実際のところ珍しくない。
同じように育ったとしても自然に成長する場合もある。
もうひとつ、指摘したいことがある。


子どもが一人っ子の場合、問題が深刻化しやすい


複数の子どもがいれば、大人の愛情なり期待なりが分散する。
しかし一人っ子の場合、それが集中するため一人で背負うことになる。
子一人に大人の事情に対する被害(あえて被害という)が集中するため、子どもは逃げ場がない。
自分の限界や幼少期の異常さに気付くのは、思春期を過ぎたあたりから。



話を芦田愛菜ちゃんに戻そう。愛菜ちゃんは一人っ子である。
分析的に子どもを見るなんて、7歳の子どもなんだから大目に見ろよ、と思う人がいるかもしれない。
だが、まだ7歳の子どもだからあえて言わせていただきたい
次のような記事を読んで、僕は危機感を覚えた。


***


子育てママが選んだ「自分の息子にしたい・娘にしたい子役タレント」アンケートで、
映画『うさぎドロップ』やドラマ「マルモのおきて」の芦田愛菜が過半数の得票を得て、
女の子部門でダントツの1位になった。



***


選んだ理由が、「しっかりしている」「育てやすそう」といったものだった。
要するに理想の子ども像である。
それを押しつけられ、彼女は必死でその要求に応えているのだ。

最近の芦田愛菜ちゃんを見て思うことがある。
本人が楽しんでるというよりか、周りの大人が喜ぶように振舞っているということだ。
そして現に大人たちは「可愛い」と喜ぶ。最近では僕のように違和感を感じる人も増えてきたようだ。
この年でアンチまで出現するとは、可愛そうなこと極まりない。


「良い子」というのは要するに大人にとっての都合の「良い子」である。
ミッキーマウスが可愛いのは、作られた物であり、どんなときでも笑顔でいることが可能だからだ。
子どもにミッキーマウスと同じことを求めるのはいささか酷すぎないか。

震災で大人たちがナイーブになっている今、人々が癒しを求めているのは理解できる。
だがそれが過剰であるがゆえ、子どもに癒しを与えないという事態は断じて避けなければならない。


芦田愛菜ちゃんを通して周りの大人に言いたいのだ。


そこに違和感を感じないのですか?


寛朗(Hiroaki)'s music theory