映画『さかなのこ』を観た。
最初に「男か女かはどっちでもいい」というテロップから始まる。
男性である主人公を女優に演じさせることに対する監督の言い訳に思えた。
のんの演技と沖田監督の演出で観た者を納得させればいいだけのことだ。
余計な言い訳などいらない。
女優の のんに主人公ミー坊を演じさせた理由は、おそらく他に演じられる俳優が思い当たらなかったのだろう。
或いは他にも主演候補はいたのかもしれないが、のんが最も魅力的にミー坊を演じられる俳優であると判断したのだろう。
単純な話だ。
原作は読んでいないし、モデルとなったさかなクンについても詳しくは知らないが、この映画はさかなクンをモデルとしたミー坊という架空の人物の話であり、いくつかのエピソードはさかなクンのエピソードに基づいているかもしれないが、あくまでフィクションとして観るべきだろう。
ミー坊は、絵がうまく、小学生の頃から大人も唸らせるほどの「ミー坊新聞」が作れてしまい、不良からも愛されてしまうキャラクターの持ち主という、特異な才能の持ち主だ。
そんな才能の持ち主のミー坊が好きなことだけをやり続ける姿が描かれる。
ミー坊は強い意志で「好き」を貫いたわけではない。
好きなこと以外、何もできなかっただけだ。
狂犬を卒業しガリ勉して大学へ進学し努力の末に一定の成功をつかみ取った幼馴染のヒヨとは対照的だ。
一般的には、好きなこと以外何もしないミー坊より、目標に向かって努力するヒヨの方が高く評価されるだろう。
どちらがいいとか、どちらが優れているとか、この映画はそんなことが言いたいわけではない。
ヒヨのような人間もいるし、ミー坊のような人間もいる。
それだけのことだ。
ミー坊に関わる唯一の異性としてモモコが登場する。
ミー坊とモモコは一時期同居し、ミー坊はモモコとその娘のミツコと家族になりたいと考えるようになる。
それが恋愛感情であったのかどうかはわからないが、ミー坊はモモコとミツコと家族になりたいと思い、そのために「好き」を手放そうとする。
生きていくためには、ときには「好き」を諦めなければならないということを初めて知ったのだ。
少なくともこの時、ミー坊にとってはさかなよりモモコとミツコの方が大切だった。
そんな時、モモコはミー坊の前から姿を消す。
ミー坊から「好き」を取り上げたくなかったのだろう。
ミー坊は、特異な才能を持った人間だ。
誰もがミー坊の真似をすることはできないし、仮に真似ができたとしても同じように成功できるわけではない。
ミー坊という、特異な才能を持ち、不思議な魅力を持った一人の人間の話をこの映画は描いている。
単純なサクセスストーリーなどではないし、教訓めいたメッセージ性もない。
単にこんなお話もありますよと観客に放り投げてくる感じは沖田監督の得意技だ。
映画の冒頭で、社会的、経済的成功を手に入れ、海辺の豪邸に住み、そこから早朝海へ出かけていくミー坊が描かれる。
私にはその姿がどこか淋しそうに見えた。
ミー坊はいったい誰に向かって「行ってきます」とつぶやいたのだろう。
愛すべき主人公ミー坊をのんが魅力的に演じている。
のんを主演に選んだ沖田監督の判断は間違いではなかったと思う。