日本人町の捏造問答をあれこれ話している内に、僕たちの車は旧アユッタヤー港(ポム・ペット港)の河畔に到着。












 





旧アユッタヤー港(ポム・ペット港)










まだ正午には少し時間があったのですが、休憩と昼食を兼ねて河畔のタイ料理店に入り、僕が持参した複写史料を見せながら、『日本人町』に関する事前説明をすることにしました。





以上までが前回BLOGの仮締めでした。








後輩の
B君は、冷えたビールを咽喉に流し込みながら、僕に質問を投げ掛けます。





友B 『日本人町が出来たのはいつ頃ですか?』


僕  『それを記録した史料は未発見なんだ』


友B 『やはり・・・』


僕  『状況証拠はあるけどね』







徳川幕府の記録によると、1604年8月(慶長9年)に発布された最初の朱印状は、有馬晴信の斡旋を受けた『シャムに居住する日本人の与右衛門に下付』とあります。与右衛門は、その後の発布も含めて、都合三回も朱印状の発布を受けています。





因幡国(鳥取県)鹿野城の城主・亀井茲矩(これのり)は、徳川家康に成り代わって、『シャム在住のオークプラー・純弘』に対して、シャム特産物の買い付けを依頼した人物ですが、その時の純弘からの書簡(二通)が残っています。





因みに、純弘なる人物は、1609年(慶長14年)から1612年にかけて、アユッタヤーにあった日本人町の初代頭領だったと推定されている人物です。





タイ側の記録によると、1610年(慶長15年)のソンタム王の治世に、日本人の庇護者だった貿易長官のピヤ・ナイワイが処刑された時に、腹をたてた『日本人280名』が叛乱を起こしたという記述があります。





キリスト教史によると、アントニオ・カルディム宣教師は、1627年にアユッタヤーに在住する『日本人切支丹400人』に秘蹟をさずけたとあります。熊本の加藤藩の重臣だった切支丹の市河治兵衛が信仰を守るために亡命した先もシャムでした。





以上のような状況証拠から、1604年以前の時点で、相当数の日本人がアユッタヤーに居住していたことが裏付けられます。














アユッタヤー王朝の日本義勇兵





友B 『でも日本人町の所在は分かりませんネ?』


僕  『外国人が記した有力な古書や古地図があります』





1617年(万暦45年) 明国の張燮の著した『東西洋考』によると、『河口から遡上すること9日で、仏郎関(ファラン)と日本関』に着くとの記述があります。仏郎関(ファラン)はポルトガル人居留地、日本関は日本人町を意味します。












仏郎関(ファラン)と日本関の上空辺りから望むアユッタヤー王都


(アラン・マレが1681年に製作した地図)










1622年4月(元和八年)のアユッタヤーのオランダ商館から本部への書簡によると、オランダ人居留地に隣接した『日本人町』からの出火により、オランダ商館と貨物が焼失して大きな損害を被ったという記述があります。





以上の著書や書簡から、日本人町はポルトガル人居留地とオランダ人居留地に隣接した場所にあったことが分かります。つまり、ポルトガル人居留地とオランダ人居留地の場所さえ分かれば、日本人町の所在地を容易に特定できるという訳です。





友B 『そんな古地図があるのですか?』


僕  『ここに複写した古地図を持ってきたよ』


友B 『ヘー!?』





話が佳境に入りかけた丁度その時、昼食としてオーダーしていたタイ食が運ばれて来ました。







タイ米焼飯のカーオ・パット、世界三大スープのトム・ヤム・クン、鶏肉入り御飯のカーオ・グラ・パオ・ガイ、タイ風サツマ揚げのトート・マン・プラー、空芯野菜のパック・ブン・ファイデーンです。












海老たっぷりのトム・ヤム・クン







二日酔いで萎えた胃袋でしたが、いつもの事ながら、正午過ぎになると決まって回復するから不思議です。先ずは腹ごしらえをすることとし、持参した古地図の話は、暫時、お預けです。







話の続きは、次回のBLOGに回すことにします。