開き直りのススメ

開き直りのススメ

マケドニアでの滞在記を中心に、開き直りの精神を語っていきます。

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2020年5月1日。メーデーと呼ばれる今日は、労働者の日であり、各地でデモが行われたり、友人と連れだって夏の訪れを祝う国もある。しかし、世界は今、静まりかえっている。

 

80年前の第二次世界大戦以降、第三次世界大戦の勃発を恐れながら、人類は核の脅威におびえ、冷戦時代をくぐり抜けてきた。米ソの超大国の緊張緩和の後は、世界はテロの脅威にさらされながらも、それさえも、何とか乗り越えてきた。

 

しかし、世界はコロナ・ウイルスという伝染病にさらされ、外に出ることも、友人と会うことさえも制限された日々を送っている。出来るだけ何もしないこと、出来るだけ人と会わないこと。ワクチンがまだ見つかっていない今、それだけが、この伝染病との最大の戦い方だ。

 

静まりかえった街中で、鳥たちがさえずり、羽ばたいている。野生に生きる動物たちも、本来人間が頻繁に往来する道路で寝転んだりしている。

 

人間たちは、地球で幅を利かせすぎてきたのか?少しは黙ったら?そう人類は、地球に言われているのか?

 

コロナ・ウイルスの起源は、まだ明らかになっていないが、それが食してはならない野生動物を口にしたためか、野生動物の伝染病の研究をしていたためかはともかく、人為的なものであると思われている。引き金は、人間が知らないうちに、自ら引いたものなのだ。

 

経路不明で、感染の拡大をもたらしているものは、地下鉄などの公共交通機関だと言う研究もある。引き金を引いた人類は、自ら傷口を広げていったのかもしれない。

 

世界で感染者は300万人を越え、死者も20万人を越えている。しかし、人類にとっては、これは初めての経験ではない。14世紀には、ペストの感染者は8000万人を越え、死者も2000万人を越えている。100倍以上の犠牲者だ。20世紀初頭のスペイン風邪では、当時の世界人口の半数の6億人が感染し、死者も4000万人を越えている。さらに倍の犠牲者だ。

 

コロナ・ウイルスは、人類がこれまで経験した感染症による犠牲ほどは大きなダメージを被らないだろう。なぜなら、私たちは、戦い方を知っているからだ。

 

しかし、この戦争の最前線には、兵士の代わりに、医療従事者が立たされている。人を救うのも、やはり人しかいないのだ。そして彼らは、マスクや手袋、フェイスシールドや、防護服を身にまとって、目には見えない敵と戦っている。

 

彼らは、人類を守る、最初であり、最後の砦だ。そして、この勇敢な戦士たちを守り、助ける唯一の方法は、人に会わず、出掛けないことだ。

 

何かをしないことが、これほど切実に求められていることはない。

 

26年前、F1レーサーだったアイルトン・セナが亡くなったのも、5月1日だった。あのときも世界は、静まりかえり、悲しみに暮れた。

 

家に帰ろう。そして、神に祈ろう。それが我々に出来る最善のことだ。

第8回新構造東京展が始まった。今回は、昨年手術・入院のために出展出来なかった作品を出すことが出来た。

お陰様で、最優秀賞まで頂くことができた。お見舞いだと思って、有り難くお受けしたい。明日は、表彰式を迎える。

1年までには想像できないことだった。まともに歩くことも階段を上ることもやっとで、お腹の手術跡をかばいながら、毎日リハビリの日々だった。

 

去年1年間の目標は、去年出展することが出来なかった作品を搬入出来るまで、体力・筋力を回復することだった。2m近い作品は、2、30kgの重さがあり、抱えて持ち上げるには、それ相応の体力と筋力がないと無理である。

去年の今頃は、ペットボトルの蓋さえ開けることが出来ないぐらい、握力も筋力も無い有様だった。

 

それを1年かけ、腕立て、腹筋・背筋、懸垂とは言ってもぶら下がるだけだが(ぶら下がる握力さえ無く、また肩の痛みで、腕を上げることさえままならなかった)。

 

今回、出展作品のタイトルは「ピスティス」。ギリシャ語で信仰という意味になる。ローマ兵の百人隊長は、当時ローマ占領下のガリラヤの北西部、カペナウムの町で、イエスの噂を聞きつけ、病気の召使いを癒やしてもらおうと使いを送った。イエスは、それを聞き、自ら赴こうとしたが、百人隊長はそれを固辞した。私が部下に命令すれば言うとおりにするように、主イエスが命じて下されば癒えるはずで、御言葉だけ頂きたいと。それを聞いたイエスは、その信仰心の高さを称え、その通りになれと言葉だけで命じて癒やしたのである。

 

聖書の中では、実際には百人隊長とイエスは会ってはいない。

 

私も、自分が回復することを信じ、リハビリに取り組んできた。その奇跡はイエスのように一瞬で起こったわけではなかったが、1年前を考えると、私にとっては奇跡である。

 

今の自分を重ね合わせた作品。3月2日まで、国立新美術館にて。

 

 

 

 

 

 

2月11日は建国記念日。建国の礎として、私は彫刻のことを考える。

芸術の一つに過ぎないかもしれない。しかし、私にとっては、手に鉄を握りしめ

石と向き合った経験が根幹にある。石という自然に、人為によって作られた鉄を

使い、一振り一振り、鑿を振り下ろしていく。

その営みは、国作りにも譬えられるのではないだろうか。

 

人はただ集まっただけでは、集団に過ぎない。そこには、統率もなければ、個々の

人間が、自らの意思や欲望に従って動くだけでは烏合の衆で、国の姿はそこには

ない。

 

しかし、ある方向性に向かって、集団を組織していくためには、鉄の意志で集団を

統率し、一挙手一投足で、立ち向かっていくしかないだろう。

 

そして、最大の問題は、どこに向かっていくのか?ということである。

 

実は、彫刻に限らず、芸術は、作者の意図を実現したものだと一般には思われているし、

作家自身もそう思って苦労している。自分の作品をいかに作るか?

 

しかし、私の立場は全く異なる。

 

私にとって彫刻とは、石がなりたい形になることを手助けすることであり、ミケランジェロや

ロダンが語っているように、石の中に生命を見いだし、それを彫りだして上げる作業だという

ことだ。

では、集団(国家)が成りたい形になれるようにお手伝いすること。それには、石の声を聞くように

民衆(国民)の声を聞く必要がある。

 

その声を聞くのが、政治家(彫刻家)の仕事であり、その声を聞き取ったら、鉄の意志で立ち向かって

行く必要がある。しかし、政治家自身の声の実現であったら、それは政治の私物化であり、芸術家が陥る

落とし穴に嵌っていると言えるだろう。

 

洗礼のヨハネは、イエスの本質を見抜き、イエスの神の子として目覚めを促した。

 

建国記念の日に、その原点を想う。