私が人生で悔やんでいることの一つに自分の意見を述べる練習をしてこなかったということがある。

最初から苦手だったのではない。少なくとも小学生の時はディベートが授業で取り入れられてそれをやったりしていたので得意な方だった。

でも中学、高校と進むにつれ意見を述べる機会を失い、私生活では「理屈っぽい女は嫌われる」「女はバカな方がいい」の雰囲気に飲まれて全く意見を述べる場がなかった。

学校の勉強で使わず、家でも使わなかったら、外でぶっつけ本番となるのだが、論理立てて話す練習をしていないからうまくいくはずがない。
私のディベートは小学生レベルで止まってしまっていて、討論相手が小学生ならトントンだが、大人相手に討論したら負けるどころかうまく話すこともできなくてもはや討論じゃなかった。

負ける勝負と気づきはじめてからはますます意見を述べることが苦手になった。むしろ、意見を言わずにニコニコ笑っている方が周りからの印象が良く、異性にもモテることに気づいていた。

たまに女同士でとことん話し合う夜があるとき、我慢できなくなったとき、私は感情のままに話すことがあった。まとまりのない文章で、思いのままに泣きながら語った。
本当は、日々「わかりやすく端的に」自分の意見を述べる習慣があればこんなに溜め込むこともなかったのだが。誰に話していいかもわからないその思いを聞いてくれる親友がいてくれて本当に良かったと思う。

でも、親友にすら言えないこともあった。
私は溜め込みきれなくなったとき、それを母に話すときがあった。
陽の目を見なかった私の言葉たちは肥溜めの中で大きく膨らんで恨みや苦しみの感情とともにあふれた。
それを聞いた母は「なんでそんな言い方なの。もっと優しく言うようにしないと」と他の心配をしていた。

私は途方にくれていた。
感情のままに溢れる言葉は考えながらしゃべっているわけじゃないので言い方だけを変えることなんて不可能だ。

言い方の問題ではなく、まず意見をかみくだく→わかりやすく章立てする→そのあとに言葉尻を優しいものに変える、のプロセスでないと。

でもそれすらわからなかった私は、また意見を封じ込めた。もう誰も言える人がいない。

その後何年か、私は自分がわからなくなりカウンセラーに通いたいと思っていたが、それが叶うことはなかった。


娘には私のような失敗をしないため、小さい頃から自分の意見を家で話すように教えたいと思っている。

・ニュースを見たとき、このニュースについてあなたはどう思うか?
・あなたの思う○○の問題点は何か?
・あなたは何が好きで、何が嫌いか?その理由は?

こういったことを、親の前でまず失敗させ、人に伝えるテクニックを学んでいく。初級編は「なんでもいい」とか「深く考えたことがない」「政治がよくわからない」という大人にならないように、まず相手に物怖じせず自分で考えて述べる練習だ。
「角が立たないように」というのを履き違えて、優しく笑顔でほんわかと話したり、わかってないふりをしたりというのもやめるべきだ。 そんなことをすると昇進面接で「成熟していない」と判断され落とされるよと教えてあげないと。

娘の現役人生はもっと長いのだから。