みなさん、こんばんは
”また会いたくなる” 心理カウンセラー
『ホシメグ』です
本日もお読みくださって、
ありがとうございます
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今回から、介護についてのお話しを
少しずつしていきたいと思います
その前に、今回は祖母のお話しを
したいと思います
先月、103歳で亡くなった祖母の
七回忌があり、
最近、よく祖母のことを考えて
いました
早いもので、東日本大震災の年、
震災が起こるひと月前のことだった
ので、
6年の歳月が過ぎました
時が経つのは、本当に早いですね
あの頃と私は、何か変わったかな・・・
そんなことをよく考えています
生前は、苦労の絶えない祖母でしたが、
いつも想い出されるのは、
「おばあちゃんは、幸せ」
と言う、一点の曇りもない、満面の
笑顔
元々は、世田谷の裕福な家の出
だった祖母
結婚してから、腕が良く独立寸前
だった職人の祖父に、
相次ぐ怪我や病気・・・
身体の弱かった祖父を支え、
自分の反物や家財を売り払い、
手先の器用な祖母は、
自分で仕事を取ってきては、
コツコツこなし、
家計を支えていたそうです
本当に働き者の、尊敬できる
祖母でした
明治40年生まれなので、
明治・大正・昭和・平成
関東大震災や東京大空襲・・・
焼野原の中、母を負ぶい、
他の子ども達の手を引きながら、
逃げ回ったのだそうです
子どもも、一人亡くしたと聞きました
そんな激動の時代を、生き抜いて
きた人でもありました
そして、愛する祖父を60代半ばで
胃ガンで亡くし、
そこから半世紀、生き抜いたのです
チャキチャキ江戸っ子の祖父のことが
母も祖母も、本当に大好きだった
そうです
私たちの小さい頃は、母が仕事に
出ていたため、
私たちの世話や、家事・炊事・洗濯は
ほとんど祖母任せ
当時、70歳過ぎの祖母
本来であれば、のんびり老後を
過ごしている歳
(うちの父も、当時の祖母と同じ位の
歳になりましたが、ソファやベッドで
グテ~っとテレビや撮りためておいた
ビデオ漬け+庭いじりをするくらい)
当初、祖父母は、祖父母の家で
長男夫婦と母で暮らしていましたが、
兄嫁のあまりにも酷い仕打ちに、
見るに見かねた末っ子の母が、
「私が一生面倒を見るから
出ていって!」
そう啖呵を切り、そこから最期の時
まで、一緒に暮らすこととなりました
そこは、自分の母ながらカッコイイ
と思います
祖父は、私が生まれるかなり前に
亡くなったのですが、
兄嫁が来てから、ストレスで胃を患い
亡くなったのだと、
母からよく聞かされました
きっと母も、悔しい想いを沢山した
のだと思います
ただ、私の父が威圧的な人であった
ために、
その状況からは抜け出せても、
祖母は、肩身の狭い想いをしていたと
思います
父が帰ってくる時は、三つ指を付いて
労いの言葉をかけ、
満面の笑顔で、お出迎えをして
いました
(MY STORYを読んでくださった方は
おわかりになるかと思いますが、)
当然、父はそっけない態度をとります
”おばあちゃん、こんな人にそんなこと
しなくていいよ。なんでそんなに気を
遣ってるの”
今の私なら、祖母の想いも理解でき
ますが、
子どもの私は、いつも悲しい気持ち
で、いっぱいになりました
そして、
ある程度大きくなり、家の事情が
わかるようになってくると、
祖母の家を売ったお金があったから
こそ、
30歳そこそこで、新築のマイホームを
手に入れられたこと
名義の半分は、祖母だということ
年金は、全て生活費として使われて
いるということ...
孫にお小遣いをあげたい、
何か買ってあげたい、
そう思っても、そのお金すら、
祖母の手元にはありませんでした
「あげたいんだけど、お婆ちゃん
お金なくて・・・ごめんね」
そう謝る祖母・・・
見ていて本当に切なかったです
お小遣いなんていらないし、
お婆ちゃんは何も悪くない
私たちのお年玉さえ、貯金しておく
と嘘を付いては、全て回収し、
案の定、一つ下の妹が結婚した際も、
そのお金は、一銭も登場することは
ありませんでした
お婆ちゃん、もっと堂々と、
大きな顔していていいんだよ
苦労してきた分、もっと楽に、
自由に楽しく生きてほしい
そう思っていた私は、
ますます、父に対する怒りが
強くなりました
旅行も、おじいちゃんのお墓参りに
一度連れて行ってもらったきり・・・
いつも、父と母と一番下の妹の3人
だけで出掛け、旅行へ行き、
うちでは、父の言うことが絶対で、
母も逆らうことは許されず、
(ただし、一番下の妹だけは例外、
妹が吹き込むどんな嘘でも信じ、
言いなり毎日召使いのように
尽くしています)
自分達は、好きなように遊びまわり、
全て祖母に押し付ける...
まるで、3人家族かのよう
休みもなく、自由もなく、気を遣い、
まるで召使い扱いのように見えました
それでも、祖母は愚痴ひとつ言わず、
「パパは笑うと、とっても可愛いのよ」
と・・・
(今は、私も少しはそう思えるのですが
昔は笑顔のイメージは皆無でした)
悪いところより、良いところを見て
あげられる人だったのです
この器の大きさ、心の広さはどこから
くるのだろう・・・
いつも不思議でなりませんでした
母も、父からのモラハラと仕事で
いっぱいいっぱい
いつもカリカリして、祖母に冷たく
当たっていたのが、
嫌でたまりませんでした
私も人のことは言えず、
父からの虐待によるトラウマ・
生きづらさで、自分のことで精一杯
祖母にしてあげられなかったこと、
悔やまれることが、山ほどあります
亡くなる数ヶ月前に、もしものことが
あった時の為に、
パパ(父)に一筆手紙を書いておいてと
母から言われ、何やら書いていました
どんな想いで、どんなことを書いた
のでしょう・・・
亡くなる数か月前、お薬の影響で、
まだらボケというのでしょうか・・・
潜在的にあった昔の感情が噴き出す
のを、目の当たりにした事がありました。
「ママたちはどこへ行ったの」
「こんな小さい子を置いて、どこへ
行ってるんだ」
そう、祖母が言うのです
そんな祖母を、見たことがありません
でした
祖母の中で我慢していたこと、
言いたくても言えない言葉・感情、
沢山あったのだろうな・・・
と、心が痛くなりました
そして、これもMY STORYの方で
書きましたが、
祖母の葬儀の取り決めの際の
父の醜態・・・
祖母を亡くして、数か月の間、
涙が止まりませんでした。。。
本当に、最後の最後しか介護の
必要がなかった祖母
毎日のように介護をしていた母や、
看護師の妹には、口が裂けても
言えませんが、
「めぐが、一番看病が上手」
その言葉が、今でもずっと耳に
残っています
そして、亡くなる間際にノートの
切れ端に書いてくれた、
「めぐみち(ゃん) おれい
めぐ ありがとう いろ(いろ) お世話」
途切れ途切れに、ブレながら
斜めに書かれている文字・・・
久しぶりに見て、号泣しました
私の、大切な宝物です
長くなるので、この続きは、
また次回にしますね
次回は、
”祖母がデイサービスに通うまで”
を、お話ししたいと思います
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