こんにちは。


先日、「金融概論」という授業で「豊川信用金庫事件」というのをちょろっと扱ったんですが、そこでいいことを思いつきました、ひくをです。


皆さんはこの「豊川信用金庫事件」というのをご存知でしょうか?日本史選択だとこういうのやるんですかね?僕は全く知りませんでした。


この事件の概要はこうです。


電車内。


女子高生A「私さぁ~、ついに就職先決まったんだよね。」


女子高生B・C「え~どこどこぉ~?」


女子高生A「豊川信用金庫ってとこ。」


女子高生B「よりによって豊川信用金庫とかww」


女子高生C「マジウケぽよww」


女子高生A「はぁ~?なんだよその言い草。ってかまずなんだよ『ウケぽよ』って。」


女子高生B「ってかマジヤバくね?w」


女子高生A「なにが。」


女子高生C「だって信用金庫って危ないじゃんww」


女子高生A「は?え、何言ってんだし、危なくねーよ。(えっ・・・ウソ・・・豊川信用金庫ってひょっとして危ないのかしら・・・)」


そう、女子高生Cは、Aをただからかうために、「信用金庫は危ない」という発言をしたのだが、それは「銀行強盗」等がくるおそれがあるから、という意味での冗談であったのにも関わらず、Aはそれを「豊川信用金庫の経営が危ない」という風に真に受けてしまった。このあとAは親戚のおっさんにこのことを相談。このおっさんがまた違うおっさんに相談してそれがその人の妻にわたってそれが町の主婦の話のタネのひとつとなり、ついには町中に知れ渡り、豊川信用金庫に取り付けが殺到。なんと20億円というお金が引き出され、銀行は一時活動不能状態に陥った。


電車内でのただの女子高生の会話が、根も葉もない噂へと変わり、それが雪だるま式にどんどんどんどん膨れ上がっていき、最後には銀行を活動不能にまでしてしまうという、面白くも、末恐ろしい事件です。


あ、まず「取り付け」という言葉の意味ですが、簡単にいえば、例えばとある銀行があって、その銀行が危ない(潰れてしまう可能性がある)という情報を聞きつけて、預金者が銀行に殺到するということです。だって銀行が潰れてしまえば自分が預けたお金はパーになってしまうんですから、預金者はそりゃあ急いで預けたお金引き出しますよね。そして銀行ってのは例えば総額3兆円とか預金されていたとしても、手元に3兆円全部あるわけではないんです。だって別にみんなが同時にお金引き出すわけでもないんで、そんなお金も必要ないんです。そして銀行ってのはお金を貸したり預かってたりするうちに、「紙幣」にはなりませんが、計算上のお金はどんどん増えていくんです。これを確か「信用創造」っていうのかな。まぁ詳しくは政経で。


ってなわけで「あの銀行危ないよ」と噂を聞いた預金者たちが豊川信用金庫に殺到し、取り付け騒ぎを起こし、一気に大量のお金が引き出され、活動不能状態に陥ったわけです。


この事件は、噂話の凄さを物語ってくれる良い例だと思います。


ここで僕は考えました。


「これをうまく使わない手はないか・・・。」




そこで皆さんにお願いがあります。


明日から、もし電車に乗る機会があれば、それはそれは大きめな声で、


「ねぇねぇ知ってる?あの、『一橋合格までの足跡』っていうブログを書いてる『ひくを』っていう人、超イケメンらしいよ。」


と、根も葉もないどころか、土も肥料も植木鉢もないようなウソをつぶやいてください。(実際は田舎の道端に転がってるたさつまいもみたいな顔をしてます。いやしてないけど。)


最悪、友達が周りにいなくても構いません。きっと「イケメン」って言葉を出すだけで電車に載ってる女性みんな友達になってくれることでしょうから。


そしてこの話を真に受けた女子高生が親戚のおっさんに相談、そのおっさんがまた違うおっさんに相談、妻へ渡り、町の主婦の毎午後行われる公園での「定例議会」の議題としてその話がのり、瞬く間に全国、いや、世界中に広がっていく。


完璧な筋書きだと思いませんか?


そうすれば、きっとこの噂を聞きつけた世界中の女性達は皆僕の元に集まってくるでしょう。素晴らしい!


先の事例を踏まえると、おそらく20億人は見込めそうです。世界中の女性の3人に2人は僕の元に駆けつけてくることになります。よく雑誌の後ろの方で「札束のお風呂」に入ってるキモいおっさんが両腕に美女を抱えてる、みたいな広告がありますが、僕の場合片腕に10億人ずつですからね。あと何キロ腕が長ければ全員抱えることができるんでしょう。気づいた頃にはおそらく、天空の城ラピュタに出てくる巨神兵もびっくりのアンバランス体型になってることでしょう。頭から足先までは1.7mちょいなのに、肩から腕は数百キロみたいな。多分腕をついて歩くとなると、「僕本体」ははるか数百キロ上空で宙ぶらりんということになりますね。大気圏外じゃん。呼吸できないじゃん。じゃあ足で歩くけど、ずっとバンザイした形で歩くんですかね。

「いてっ!なんか手に当たった!」って思ったら実はそれ人工衛星だった、とかね。

友達に「おいおい~」とか言ってワキくすぐられても、対処できません。なんせ、上空の「手のひら」を地上に呼び戻すにも「コナン君が死体見つけて犯人を見つけるまで」ぐらいの時間はかかるんですから。甘んじて「アヒャっ!アヒャっ!」とくすぐられるしかありません。20億人の女性を両手に抱えられるわけですから、これぐらいの我慢は必要です。


さらに他にも懸案事項もあります。それは「イケメン」が好きなのが「女性」だけではないということ。おそらくIKKOみたいなおネエや、ゴリゴリのホモもきてしまうことでしょう。しかも全部で20億人ですから、推測するに数百万単位のおネエとホモが僕のとこに集まってきます。こんなにもおネエとホモが集まったら、下手したら独立国家とか作っちゃうかもですよ。「おネエ共和国」とかね。そんな深夜番組ありそう。




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さてさて、こんなくだらない冗談は置いといて、題名にある話です。


先生という存在は、普通の人が思ってるより何倍も大事な大事な存在だと思うんですよね。


僕の例を紹介すると、高校二年生の6月ぐらい、僕は東進で世界史の通史の授業を履修?することに決めました。実はこのとき、僕は一橋の二次試験は「倫理・政経」でいくつもりでした(世界史はまぁまぁ好きだったから、センターで使おうと思ってました)。

なぜ倫理政経でいこうかと思ったのかというと、実は一年生のときにあった倫理のテスト(200字記述とかあって、いつも結構歯ごたえのある問題でした)で、学年で80点以上が二人しか出なかったテストで、なんと94点を取ってしまったのです笑。しかも、いつも記述問題がいくつかあるんですが、今回は中記述がふたつ、大記述が一つ、あったんですが、その両方の中記述の模範解答に選ばれ笑(いつも記述問題は生徒の答えを載せることになってます)。ま、なんでこんな点取れたかっていうと、先輩に過去問をもらってた、ってことなんですがね笑。でもまぁ過去問そのまま出るわけでもないし、他にもたくさん過去問は持ってる人がいる中でのこれですから、当時の僕は自分で勝手に「倫理の申し子」と自負して、高校生活を送っていたわけです。だから二次も倫理政経でいこうと。因みに去年のセンター倫理政経は72点でした。世界史にして良かった笑。


話がそれました。で、なんで二次を結局世界史に変えたかというと、それはこの授業を受けた結果です。


荒巻先生という方なんですが(「新・世界史の見取り図」という本を出されてる方です)、表面的な史実とか雑学じゃなくて、この出来事の歴史的な意味とか、なぜ世界史を学ぶのかとか、そういう、受験勉強には一見関係ないような「雑談」にすごく惹かれ、「世界史ってこんな奥が深くて面白いのかぁ」と思い、「じゃあ二次も世界史でいこう」と決めたわけです。だから先生との出会い、って言ったら大げさですけど、それがなければこんなに世界史を好きになって勉強することもなかったわけです。因みにその通史の授業のあとも、東進の論述世界史とか、特進の世界史等で直接授業を受けることもあって、本当にお世話になりました。論述に自信が持てるようになったのも、先生のおかげでしょうね。副作用として、文章を書くことがちょっと好きになりました。


次は、やっぱり現代文の林先生ですかねぇ。


それまで、現代文は自己流のやり方でなんかいろいろそれっぽいとこを適当につなぎ合わせて、っていうふうに、超適当に解いていたんですが、いや先生の授業は衝撃でしたね。今までどんだけ自分が「不適当」な解き方をしてたのか思い知らされました。だから最初の方は、記述型の問題を集めた講座だったんですが、ほとんど全部×なんじゃないかってぐらいコテンパンにされました。最初はついていくだけで必死だったんですが、だんだん自分も解説を聞いてて、「うん、そうだよね」っておもえるようになってきて。25コマあったんですが、最後の二コマぐらいでようやく、7割~ぐらい取れるようになって、自分の解き方(といっても先生の解き方をひたすらマネしただけ)が確立しました。そうやって授業を受けてく中で、本当に現代文にはまってしまって笑。なんかスリリングなんですよね。知識が聞かれているのではなく、「頭の働かせ方」の正しさが問われてる。そして文章に向かって「あれがこうだから・・・」って考えるのがとても楽しい。感覚的には、スポーツをやってる感覚です。今でも生徒から来た質問が現代文だと、「おっ、どれどれ」とついつい身を乗り出してしまいます。


多分、先生の授業を受けてなかったらこんな現代文にハマることはなかったし、一橋模試で国語が数学の変だちより30も高い、なんてことはなかったでしょう(数学がカスだっただけなんですけどね笑)。


話はそれますが、一橋の国語には「200字要約」がありますよね、これの勉強は入学したあとも役立ちます。商学部では一年からゼミに入るわけですが、そこではみんなで同じテキストを行います。ゼミによって違うでしょうが、おそらくどこのゼミも、「本文の要約」は必ずやってるはずです。商学部じゃなくても、本を読んでレポートを書く、となったときに、やはり要約力は欠かせません。そう思えば、国語の第三問対策にも身が入るのではないのでしょうか。


そしてこれは高校時代までの話。大学入ってからは、多分この「金融」の授業が顕著だったかな。


最初商学部の必修科目を見たときに、「うわっ、金融とか絶対難しいじゃん勉強したくねーorz」とか思ってたんですが、この「金融概論」の先生が実はとてもいい先生で、結構、必修科目で大教室でやる授業だと、先生が自分の世界に入ってしまって生徒をおいてけぼりにしてしまうとか、みんな寝てしまっているだとか、そんなことはあるんですが、この先生は厳しいとこは厳しく(大学の授業って寝てる人がいても先生は無視なんですが、この先生は確か寝てた生徒を前に呼び出して退出させてました)、けど基本的にはわかりやすく、生徒に話しかけるようにして、授業をしてくれます。最初は「金融なんて」って思ってたけど、今では「結構面白いとこもあるんだな」ぐらいにはなってきました(流石に「金融を専門にしよう!」とまではいきませんでしたが笑)。この授業をきっかけに「よし、金融を専門にしよう」と思う生徒もいるでしょうね。やはり「良い先生」との出会いというのは、とても大事なことだと思います。


それに、例えば小学校となると、先生というのは親の次に一番近しい存在になるわけですから、必然的に生徒のお手本、メンター、ロールモデル、インプリマ(全部同じ意味です)になるわけです。三つ子の魂百までなんていいますが、小さい頃教え込まれた教えというのはなかなか忘れないものです。小学校の頃の先生が自分の悩みを聞いてくれなくて怒ってばっかりだったから、人に心を開けなくなってしまい、不登校になってしまう――こんな生徒も少なからずいるんではないでしょうか。


やっぱり「先生」という存在は、思った以上にとても大きな、影響力のある存在です。


僕の授業、言動で生徒の将来が変わるんだな――そういう意識を心のどこかに持ちながら、全国の教鞭をとる先生たちが授業してくれたら、もうちょっと「学校」が好きになる生徒が増えるんじゃないかな、そんなことを、一生徒として生意気ながらも思った今日この頃でした。