96城目 No.86大野城(2010年3月6日登城)
大野城は、天智天皇2年(663)に白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に大敗した倭国が、天智天皇4年(665)に大宰府防衛のため、水城、基肄城などとともに、大宰府の北に位置する標高410mの四王寺山一帯に築いた古代山城。築城にあたっては、百済からの渡来人の指導を受け、朝鮮半島の築城技法によった古代朝鮮式山城である。
尾根には土塁、谷には石垣を築いて城壁とし、土塁は北と南が二重になっており、その総延長は8.6kmにも及ぶという。城内からは70棟以上の建物跡が検出されており、多くの礎石が残されている。
福岡空港からレンタカーで向かう。大野城市総合体育館でパンフレットをもらい、城跡の北側、宇美町側から入る。しばらく走ると、道路左側に百間石垣が見えてくる。
百間石垣は、大野城跡の北側にある大きな谷部につくられた石塁で、大野城の石塁の中では、最も大きく、流出してしまった部分も含めて長さは約200m、最高部で高さは約6mとのこと。
百間石垣のところからさらに車を走らせ、四王寺県民の森センターへ行く。ここに大野城宇美口城門の礎石が展示されている。昭和48年(1973)に百間石垣の傍、四王寺川の川底から発見されたもの。
四王寺県民の森センターから林道を走り、尾花地区の方へ行く。駐車スペースに車を停め、土塁の上を歩いていく。
尾花地区には10棟の建物の跡が残っているという。
このあたりは焼米ヶ原と呼ばれている。火災により建物が焼けたという言伝えがあり、それを裏付けるかのように、黒く炭化した米を今でも拾えるという。
復元された防塁。
尾花礎石群。礎石が各建物の範囲内に碁盤目状に配置されており、床を高くして、それを多数の柱で支える形の建物が建っていたという。
10棟の建物は、ほぼ南北方向に5棟が一列に並び、他の5棟もそれぞれ計画的に配置されている。建物の大きさは梁行6.3m、桁行10.5mで統一されているという。
土塁の横を歩いて南の方へ進む。
土塁の上を歩く。
大宰府口城門跡。大野城跡では8箇所で城門跡が見つかっているというが、最も大きいものが大宰府政庁側にあるこの門。大野城の正門ではないかと考えられているという。
外側から見た大宰府口城門跡。
城門の礎石。
大宰府口城門に接して、左手には谷筋から侵入してくる敵を拒むように築かれた石塁が、右手には焼米ヶ原に延びる土塁が築かれている。
林道を挟んで反対側、城の南東部の増長天礎石群の方へ行く。
大宰府口城門に近い内部土塁のすぐ内側に4棟の高床建物跡が一列に並ぶ。傾斜地を利用しているため石垣を作り、上段と下段に区切って各段に2棟ずつ配置されている。
車へ戻って、四王寺林道を下って大宰府側へ下り、大宰府政庁跡へ行く。
大宰府政庁跡は、九州全土を治める役所である大宰府があったところ。7世紀の後半から奈良・平安時代を通じて九州を治め、わが国の西の守りとして防衛、また外国との交渉の窓口として重要な役割を果たしてきたという。
この後、政庁跡の横に建つ大宰府展示館を見学する。