86城目  No.93人吉城(2010年1月9日登城) | 城めぐりん

86城目  No.93人吉城(2010年1月9日登城)

 人吉城は、建久9年(1198)に人吉庄の地頭に補任された相良長頼によって築城されたと伝えられる。室町時代に球磨郡を統一した相良氏は、やがて芦北、八代、薩摩方面にも領土を広げ、有力な戦国大名となる。しかし、天正15年(1587)、豊臣秀吉の九州平定後、球磨郡だけの統治に戻る。関ヶ原の戦いでは、相良長毎は西軍につくが、重臣・犬童頼兄(相良清兵衛)が東軍と内応していたために所領が安堵され、人吉藩として明治まで続くこととなる。

 天正17年(1589)、長毎が豊後から石工を招き城の整備を開始。慶長6年(1601)、本丸、二の丸、三の丸などが竣工。後に、胸川などの河道を変更して川沿いの石垣普請を開始し、胸川右岸に新たに大手門を設けるなど、寛永年間(1624~44)に近世城郭として完成した。本丸に天守は築かれず、代わりに二階建ての護摩堂があったという。

 文久2年(1862)の大火で城内の御殿、武器庫、米蔵、武家屋敷などが焼け、さらに明治10年(1877)の西南戦争で官薩両軍の戦火にさらされることとなる。

 平成5年(1993)、角櫓、長塀、多聞櫓が復元された。


 飫肥からレンタカーで、宮崎自動車道、九州自動車道と走り、人吉へ到着。城跡の南側、相良神社への参道の東側に車を停めて登城開始。水堀に沿って神社入口の方へ歩いていく。


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 御館御門橋を渡って、相良神社となっている御館跡へ入る。御館は城主の屋敷があったところ。


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 御館跡西側にある清兵衛門跡。


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 御館跡の東側から石段を登っていく。


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 しばらく登ると、三の丸跡の石垣が現れる。


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 石垣に沿って歩いていく。


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 三の丸跡の北側のこの場所は御津賀社跡。相良氏以前の人吉を治めていた平家の代官矢瀬主馬祐を、相良長頼が倒すことになるが、御津賀社は主馬祐の母・お津賀の霊の祟りを沈めるために建てられたといわれているとのこと。


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 正面は二の丸跡の石垣。右へ入っていくと三の丸跡。


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 そこから東へ進むと、二の丸へ上がる中の御門跡。


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 枡形となっている門跡の石段を登る。


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 登ったところが二の丸跡。正面のさらに高くなっているところが本丸跡。そちらへ進む。


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 右側の石段を登っていく。


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 本丸跡。本丸は、はじめ高御城と呼ばれていたという。天守は建てられず、寛永3年(1626)に二階建ての護摩堂が建てられ、その他、御先祖堂や時を知らせる太鼓屋、山伏番所があったという。


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 もう一度、二の丸跡へ戻る。二の丸御殿が建てられていた。


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 二の丸跡から三の丸跡、御津賀社跡、その向こうに球磨川を眺める。


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 二の丸跡北辺には、御殿から三の丸へ下る埋御門が土塀の下に作られていたという。


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 広大な三の丸跡へ下りる。三の丸は二の丸の北・西部に広がる曲輪で、西方に御津賀社と2棟の塩蔵を、東の中の御門近くに井戸と長屋を配置するだけで、大きな広場が確保されていたという。


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 三の丸跡から球磨川を眺める。


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 三の丸跡から御館跡の相良神社北側へ下りる。


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 そこから東へ向かうと、御館の北の裏門である堀合門が建つ。平成19年(2007)に復元された。


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 堀合門をくぐって御館跡の外へ出る。


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 門を出て右の方へ進む。


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 しばらく行くと、右側に御下門跡の石垣が現れる。御下門は、下の御門とも呼ばれ、人吉城の中心である本丸、二の丸、三の丸への唯一の登城口に置かれた門。大手門と同様の櫓門形式であったという。ここから登っていくと、先ほどの中の御門に至る。


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 御下門跡のところでUターンして道を戻る。堀合門と反対の右手には水の手門跡がある。慶長12(1607)年から球磨川沿いの石垣工事が始まり、外曲輪が造られたが、水運を利用するため、川に面した石垣には7箇所の船着場が造られ、その中で最大のものが、この水の手門であるとのこと。幕末まで、人吉城の球磨川に面する城門であった。


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 御館跡北側の石垣に沿って歩いていく。ここの石垣は、天端石が一石分飛び出す跳出石垣となっている。幕末の大火の後に導入された西洋式築城によるものであるが、稜堡式築城以外では、日本で唯一の事例だという。


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 球磨川に架かる水ノ手橋の上から、水の手門跡を眺める。


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 球磨川に沿って西へ進むと、左手に人吉城歴史館があり、さらにその先の右側には、復元された角櫓が建っている。


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 角櫓の左側には長塀が続く。


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 さらにその先につながって多聞櫓が復元されている。


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 多聞櫓の南側が大手門跡。大手門は胸川御門とも呼ばれ、城の正面入口となる重要な場所であったので、石垣の上に櫓をわたして下に門が設けられた。さらに門前を枡形としていた。また、門の北側には多門櫓を建てて、外堀となる胸川の対岸に大手橋を架けて防御し、門内には番所を置いて監視させた。大手門櫓は正保年間(1644~48)に建てられ、享保5年(1720)に造り替えられて、明治初期の払い下げで撤去されたという。


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 大手橋を渡り、胸川沿いに歩いていく。対岸から見た多聞櫓。


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 さらに進んで、球磨川と胸川が合流する地点から、復元された角櫓、長塀、多聞櫓を望む。ここからの眺めがなかなか絵になる。


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 もう一度、大手橋を渡り、大手門跡から市役所の西側の渋谷三郎左衛門屋敷跡を通って、人吉城歴史館へ行く。歴史館は相良清兵衛屋敷跡に建っており、世界に類例のないという、井戸をもつ地下室遺構を見ることができる。

 歴史館を見学後、車へ戻る。



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