80城目  No.92熊本城(2009年11月21日登城) | 城めぐりん

80城目  No.92熊本城(2009年11月21日登城)

 熊本城は、応仁・文明年間(1467~87)、菊池一族の出田秀信が、熊本平野に突き出た京町台地南端の茶臼山東麓に千葉城を築いたのが始まりという。明応5年(1496)には鹿子木親員が同山南西麓に隈本古城を築いて移った。しかし、天文19年(1550)、豊後の大友氏が攻略し、城親冬が入城し島津氏に属した。天正15年(1587)、城氏3代目・久基は、豊臣秀吉の九州平定戦で降伏し、城を退いた。

 秀吉は、肥後一国に佐々成政を配し、成政は隈本城に入ったが、検地の強行から国人一揆が蜂起し、その責任を問われ、成政は翌年に改易、切腹となる。

 天正16年(1588)、肥後北半は加藤清正、同南半は小西行長に与えられた。清正は最初、隈本城に入るが、関ヶ原の戦い後、改易された小西領を合わせて肥後一国の領主となり、慶長6年(1601)から新城の築城を開始し、同12年(1607)に完成したというのが通説であったが、天正17年(1589)から文禄年間(1592~96)には既に着工されていたとの説が有力だとのこと。

 加藤氏は、清正没後、その子・忠広の代で改易となり、寛永9年(1632)に小倉から細川忠利が入城し、以降、明治まで11代にわたって続いた。

 明治になると城には熊本鎮台がおかれ、明治10年(1877)の西南戦争では難攻不落の造りを実証するが、西郷軍の総攻撃の3日前に、原因不明の出火で天守はじめ、大半を焼失した。

 昭和35年(1960)には天守が外観復元され、その後も、平成11年(1999)から、西出丸の櫓や門、飯田丸五階櫓が、平成15年(2003)からは本丸御殿大広間の復元が行われ、平成20年(2008)に完成した。


 今回は一口城主となって初めての登城。熊本空港到着後、リムジンバスで市内へ向かう。バスの車内アナウンスは、熊本県宣伝部長のタレントのスザンヌが担当。交通センターでバスを降り、歩いて城を目指す。

 交通センターから北へ歩いていくと、坪井川に架かる行幸橋のそばには、加藤清正公銅像が建つ。


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 坪井川沿いには、長さ約242mの長塀が往時の面影をとどめる。慶長6年から12年(1601~07)の造営とのこと。


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 入口は何箇所かあるが、今回は櫨方門から入城する。行幸橋を渡り、備前堀の横を歩いて枡形の石垣の間を抜けていく。


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 櫨方門の受付で城主手形を提示し、無料で入城。


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 門を入って左の方を見上げると、高石垣にそびえたつ飯田丸五階櫓が見える。


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 竹の丸を東へ歩いていく。もう一度、左を向くと、高石垣の奥に大天守が見える。


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 長塀を内側から見ながら、左側に肥後六花園を見て、竹の丸をさらに東へ進む。


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 そのまま進んでいくと、熊本城南東にある須戸口門に至る。石垣の上には平御櫓が建つ。


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 ここから左手の高石垣上の重文の櫓群を見ながら北へ進む。左から、田子櫓、七間櫓、十四間櫓、四間櫓、源之進櫓と並んでいる。田子櫓は慶応元年(1865)、七間櫓は安政4年(1857)、十四間櫓は天保15年(1844)の再建。


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 四間櫓と源之進櫓の下の高石垣は横矢掛となっている。四間櫓は慶応2年(1866)、源之進櫓は慶長6年~12年(1601~07)の造営だという。(上:四間櫓、下:源之進櫓)


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 さらに高石垣沿いに北へ進む。


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 進んでいくと、美しいカーブの本丸東高石垣上に東十八間櫓が建つ。


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 左へ曲がり石段を登る。


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 石段を登り振り返って、東十八間櫓を見る。


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 東十八間櫓の北側に続いて、北十八間櫓、五間櫓と並んでいる。いずれも慶長6年~12年(1601~07)の造営だという。


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 城の鬼門の方角である東北に位置する不開門。陰陽道では、この方角は塞いでも、開け放してもいけないとされ、門は造るが普段は閉ざし、不浄なものを運ぶときだけ開いたといわれている。慶応2年(1866)の造営。

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 不開門への登り坂。奥の石垣の上に建つのは平櫓。櫓本体を石垣よりせり出させ、さらに石落しを施す、搦手防御の要の櫓。安政7年(1860)の再建。


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 不開門のところで折り返して南の方へ歩いていき、先ほどの東竹の丸の櫓群を内側から見ながら進んでいく。櫓の名称は、七間櫓や十四間櫓のように、その大きさによって呼ばれたり、源之進櫓などのように、管理していた人の名前に由来するものなどがある。田子櫓のように、収納していた木製の容器の名前がついた櫓もある。


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 東竹の丸から右に目をやると、石垣の上に復元された本丸御殿の屋根が見える。


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 そのまま東竹の丸を西へ進む。手前に五階櫓跡の石垣。竹の丸から飯田丸、東竹の丸方面へ登る途中にあった五階櫓の跡で、独立した石垣の上にあったので別名独立櫓とも呼ばれたとのこと。奥に見えるのは飯田丸五階櫓。


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 ここから右へ曲がると、有名な本丸南西隅の「二様の石垣」を見ることができる。右側のカーブのゆるやかな石垣が清正時代のもの、左側が後から追加した細川時代初期の石垣だという。奥に大天守も見え、熊本城の見所のスポットの一つ。


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 飯田丸の方へ行く。飯田丸の名称は加藤清正の重臣・飯田覚兵衛が管理していたことによるという。熊本城南面防衛の要であり、櫓と塀で囲い込まれ、内部には井戸や台所、鉄砲蔵までも設けられていたという。南西隅に建つのは、外観三重内部五階の飯田丸五階櫓。明治になって取り壊されたが、史実に基づき、平成17年(2005)に復元された。


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 五階櫓の中へ入って内部を見学。


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 櫓を出て、梅園の横を歩いて本丸の方へ向かう。


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 石段を登って、左側の石垣の上の数寄屋丸へ行く。


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 ここには、主に接客用として茶会、歌会、能などを楽しんだ建物であった、数寄屋丸二階御広間が建っている。明治になって取り壊されたが、平成元年(1989)に市制100周年を記念して復元された。


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 数寄屋丸二階御広間の中へも入ってみる。


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 外へ出て、数寄屋丸から大天守・小天守を眺める。


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 数寄屋丸から本丸の方へ向かう。平左衛門丸と数寄屋丸の間から凹状カギ手通路を通り、闇門から入っていくことになる。


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 復元された本丸御殿地下の闇通路を進んでいく。


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 闇通路の突き当りを右に曲がって外へ出て、南東から本丸御殿を見る。


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 もう一度地下を通って北側へ回り、天守東側の広場へ出る。正面に大天守と小天守が並んで建つ。大天守は外観三層内部六階地下一階、小天守は外観二層内部四階地下一階。明治10年(1877)の西南戦争時に焼失し、昭和35年(1960)に鉄筋コンクリート造で外観復元された。


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 先に本丸御殿の中へ入ることにする。本丸御殿は、慶長15年(1610)頃、加藤清正によって建設され、細川忠利によって増改築がなされたという。天守と同様、西南戦争時に焼失してしまったが、平成20年(2008)に復元された。数々の部屋の中でも、最も格式高い部屋である「昭君之間」は、清正が豊臣秀頼を迎えるために造った部屋との伝説もあり、絢爛豪華な障壁画や天井画が描かれている。


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 本丸御殿を出て、いよいよ次に天守の中へ入る。内部は熊本博物館分館となっており、加藤氏時代、細川氏時代の資料や西南戦争関連の資料などが展示されている。


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 しかし、何といっても今回の最大の目的は、一口城主となっている自分の名前が書かれた木札を探すこと。一階から多くの人の名前が掲示されているが、時期別、都道府県別になっているので、無事、二階で自分の名前を発見できた。(写真はボカしてあります。)


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 最上階の展望所から宇土櫓の方を眺める。


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 最上階から西出丸の方を眺める。


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 天守から本丸御殿を眺める。御殿の前には大銀杏が植えられている。熊本城は別名「銀杏城」といい、その名前はこの大銀杏に由来する。清正公が築城の際に植えたと伝えられる。現在の木は、西南戦争で燃えた後に芽吹いた脇芽が成長したものであるとのこと。


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 天守を出て、西側の平佐衛門丸へ回り、宇土櫓へ行く。宇土櫓は、本丸の西北隅の高石垣の上に建つ三層五階地下一階の櫓で、西南戦争でも焼け残り、慶長6年~12年(1601~07)の創建当時から残る唯一の多層櫓である。


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 連結する古外様二重櫓から中へ入り、多聞櫓を通って、宇土櫓の中へ入る。


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 宇土櫓最上階から見た大・小天守。


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 宇土櫓から外へ出る。天守西側の平佐衛門丸の片隅にある首掛け石。熊本城築城の折、横手の五郎という怪力無双の若者が、花岡山から首にかけて運んできたと伝えられる石とのこと。


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 数寄屋丸の端にある地図石。打込接ぎで築かれた熊本城の石組みの中で、ここだけは特異な石の組み方がされている。表面を平らに加工し、隙間なく組み合わされた構図から、「地図石」と呼ばれてきたという。


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 右手に古外様二重櫓を見ながら頬当御門の方へ進んでいく。


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 そのまま頬当御門を出て西出丸の方へ向かう。頬当御門は、天守閣へ向かう正面入口で、城を顔に見立てたとき、ちょうど顔の前に当てる甲冑の部品の頬当てに見えることから、こう呼ばれるようになったという。


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 西出丸は、頬当御門虎口の巨大な馬出ともいえる。西出丸には、南大手門、西大手門、北大手門の3虎口が開かれ、石垣上に3基の櫓が構えられていた。

 南大手門をくぐって南へ進む。平成14年(2002)に復元された南大手門は、城内で最大の櫓門。


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 ぐるっと西出丸の周りを歩く。西出丸南西隅の木造二重三階の未申櫓。平成15年(2003)に復元された。


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 未申櫓の下から北向きに進む。


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 西出丸西側の長塀。その先に見えるのは、平成15年(2003)に復元された木造二重三階の戌亥櫓。


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 西大手門から西出丸の中へと戻る。3つの大手門のうち最も格式の高い門とされる。平成15年(2003)復元。


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 西出丸の中を北へ進み、本丸の北にある加藤神社の入口から、石垣上にそびえる宇土櫓を見る。ここからの姿は本当で絵になる。


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 北大手門跡から出て左へ曲がり、さらに右に曲がって北へ進むと、右側に監物櫓が見える。当時は、長岡図書、別名細川刑部本邸の中にあったので、長岡図書預り櫓と呼ばれていたが、明治になり陸軍が管理するようになってから、隣の長岡監物邸と取り違えて、監物櫓と登録してしまい、それが定着したのだという。安政7年(1860)再建。


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 ここから左手に百間石垣を見ながら西へ進む。


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 二の丸御門跡。


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 そのまま進み、旧細川刑部邸へ行く。細川刑部家は、細川忠利の弟、刑部少輔興孝が、正保3年(1646)に2万5千石を与えられ興したもの。旧細川刑部邸は、その細川刑部家の下屋敷を、平成2年(1990)から4ヵ年をかけて、城内三の丸に移築したものである。


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 旧細川刑部邸を見学後、向かいにある熊本博物館も見学。その後、熊本城周遊バス「しろめぐりん」に乗って、夏目漱石内坪井旧居を見てから、交通センターへ戻り、予約しておいたホテルへチェックイン。

 この日は、夜間開城日であるとのことであったので、夜にもう一度、登城する。ライトアップされた姿も美しい。


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 (再訪時の記録 熊本城その2は こちら