74城目  No.31新発田城(2009年9月21日登城) | 城めぐりん

74城目  No.31新発田城(2009年9月21日登城)

 新発田城は、鎌倉時代に加地庄地頭となった佐々木源氏の一族が新発田氏を名乗り、築城したという。戦国時代、揚北衆の一人であった、上杉謙信の重臣の新発田重家が城主であり、御館の乱では上杉景勝に味方したが、恩賞の不満から景勝と対立し、織田信長と結び反旗をひるがえす。しかし、信長の死後、景勝に攻められ、滅亡する。

 その後、慶長3年(1598)、上杉景勝が会津へ転封となると、加賀大聖寺から溝口秀勝が6万石で入封し、城の大修築と城下町の建設を行い、明治まで12代にわたり溝口氏が続いた。

 城跡には、本丸表門と旧二の丸隅櫓が現存し、平成16年(2004)に御三階櫓と辰巳櫓が木造で復元されている。


 JR新発田駅から徒歩で向かう。15分ほど歩くと、二の丸跡の新発田城址公園に到着する。


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 新発田城といえば本丸の西端に建つ御三階櫓。延宝7年(1679)建造の天守代用の櫓で、最上重の3匹の鯱をのせたT字形の屋根や海鼠壁が独特の外観をみせる。明治になって破却されたが、平成16年(2004)に史実に基づく伝統木造工法で復元された。自衛隊の敷地内に建っているため、残念ながら内部の見学はできない。

 公園の北西の端まで行き、じっくりと眺める。


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 3匹の鯱は、雄2匹と雌1匹とのことである。


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 水堀に沿って歩いていく。


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 本丸跡南西角に建つ旧二の丸隅櫓。寛文8年(1668)の大火後に再建されたもので、元は二の丸北部にあったものを、昭和34年(1959)から35年(1960)にかけて、現在の本丸鉄砲櫓跡に解体移築されたという。


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 本丸を囲む帯曲輪の南西にあった土橋門跡。この土橋門と帯曲輪、本丸表門と鉄砲櫓により、枡形門に等しい防御機能を持たせていたという。


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 土橋門跡から東へ進むと本丸の正門である表門が建つ。享保17年(1732)に再建された櫓門で、二階正面には石落しがある。


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 本丸跡南東角に建つ辰巳櫓。御三階櫓とともに平成16年(2004)に木造で復元された二重櫓である。


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 表門の橋を挟んだ向かいには、忠臣蔵で有名な堀部安兵衛の像が建っている。堀部安兵衛は、新発田藩士中山弥次右衛門の息子で、母方の祖母は藩祖・溝口秀勝の娘だという。


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 表門から本丸跡へと入る。


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 橋の上から水堀を眺める。御三階櫓から鉄砲櫓、表門から辰巳櫓の間は、今も見られるような切込接ぎの石垣で築かれていた。


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 表門を入ると、藩祖・溝口秀勝公の銅像が建っている。


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 本丸跡内側から表門を見る。


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 石段を登って、表門の中へ入ってみる。


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 表門内部には櫓の模型も展示されていた。


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 表門を出て、次に旧二の丸隅櫓の方へ向かう。


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 中へ入ってみる。こちらは内部に何も展示されていない。


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 次に、復元された辰巳櫓の方へも入ってみる。


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 自衛隊の敷地内に建つ御三階櫓を遠望する。何とか見学できるようにならないものか。


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 城跡の散策を終えて、旧新発田藩下屋敷大名庭園の清水園へ行くことにする。途中、寺町通りを歩いていく。

 藩主・溝口家の菩提寺である宝光寺。


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 応永元年(1394)に新発田重家が開基となり、雲洞庵の住職悦叟和尚が開山したと伝えられている福勝寺。


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 寺町の中をそのまま進んでいくと清水園へ到着。清水園は、藩主溝口家の下屋敷として造られ、清水谷御殿とも呼ばれていた。庭園は、近江八景をとり入れた純京都風で、中央に草書体の「水」の字をかたどった大泉池のある回遊式庭園。


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 清水園に沿って流れる新発田川をへだてた路すじに、旧新発田藩足軽長屋が建つ。藩政時代の足軽が居住した木造茅葺き平屋建ての八軒長屋。かつては会津街道に向かって幾棟かの足軽長屋があったというが、現存するのは、天保13年(1842)の棟札がみられるこの1棟のみとのことである。


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 足軽長屋の見学を終え、この後、歩いて新発田駅へ戻る。



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