70城目  No.7多賀城(2009年9月19日登城) | 城めぐりん

70城目  No.7多賀城(2009年9月19日登城)

 多賀城は、奈良時代前半に陸奥国の国府・鎮守府として築かれた城柵で、約200年の間、東北地方の政治・軍事の拠点であったという。丘陵上に立地し、約900m四方の範囲に版築で築かれた築地や柵の大垣がめぐらされ、南・西・東に門が開かれた。郭内の中央に政治や儀式を行う政庁が置かれ、城内に分散して役所や工房、兵舎が配置されたという。平安時代になると、多賀城の南城外に碁盤目状の街区割りがなされ、国司や役人の屋敷地が開かれた。


 JR東北本線の国府多賀城駅から歩いていく。まず最初に外郭南門跡のあった地区へと向かう。


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 多賀城の正面入口である外郭南門から中枢部である政庁へ真っ直ぐに通じる南北大路は、多賀城の中で最も重要な道路で、最盛期には道幅が23mもの規模であったという。


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 外郭南門跡のところにある縮尺1000分の1の多賀城の模型。


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 外郭南門は、中心施設である政庁の南方約350mのところにあった多賀城の正門で、南を区画する築地塀のほぼ中央に位置する。多賀城の外郭門は、発掘調査の結果、この他に東・西門が判明しており、いずれも瓦葺きの門で、陸奥国府としての重要性を示している。中でもこの南門は、屋根が二重になっている立派な門であったと考えられているとのことである。


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 外郭南門跡から北東へ少し城内へ入ったところに、覆屋に囲まれて多賀城碑が建っている。


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 多賀城碑は、江戸時代に土中から発見されたとの伝えがあり、141文字で多賀城の位置、724年に大野東人によって創建されたこと、762年に藤原朝狩が修造したこと、が刻まれており、多賀城改修の記念碑と考えられている。発見当初より、歌枕にある「壷碑」ともみなされ、松尾芭蕉など多くの文人が訪れたという。


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 ここから政庁のある中心部の方へ歩いていく。


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 真っ直ぐ歩いていくと政庁がある丘陵へ登る石段が見えてくる。


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 石段を登っていく。


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 石段を登ったところに、縮尺200分の1の多賀城政庁推定復原模型がある。政庁は約100m四方を築地で囲み、中央やや北側に正殿、その手前両側に東西脇殿が配置されていたという。


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 政庁跡の入口の南門跡。


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 正殿の方へ進んでいく。正殿の前には石敷き広場が広がっている。


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 第Ⅱ期-8世紀後半の政庁正殿跡。この時期の正殿は礎石式の四面廂付建物であったという。


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 正殿跡北側の第Ⅳ期後殿跡。


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 政庁東殿跡。政庁東門の位置に造られた殿舎の跡で、南北に築地塀が取り付いていたという。


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 政庁跡の散策を終え、もう一度歩いて駅の方へ向かい、反対側にある東北歴史博物館を見学してから、電車で仙台へ戻る。



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