65城目 No.3松前城(2009年9月3日登城)
戦国時代から北方交易に力を持った松前氏は、勝山館や松前大館を拠点としていたが、慶長5年(1600)から、松前城の前身となる福山館の築城を開始し、慶長11年(1606)に完成した。
幕末の文久3年(1863)には、藩主・松前崇広が幕府の寺社奉行となり、翌元治元年(1864)には幕府の老中となった。嘉永2年(1849)、北辺の海がロシアの南下などで蝦夷地防衛の拠点となり、津軽海峡警備強化のため、幕府は松前藩に松前城の築城を命じ、4年後に完成した。日本で最後に築城された和式城郭である。
7基の砲台と25門の大砲を備え、海への防備に主体を置いたため、北側の背後は手薄になっていた。そのため戊辰戦争の際には、土方歳三率いる旧幕府軍に背後から攻められ、あえなく落城の憂き目にあった。
明治4年(1871)の廃藩置県後、城域の大半は破却され、天守、本丸御門、本丸表御殿のみが残された。天守は、昭和24年(1949)の火災で、残念ながら焼失したが、昭和35年(1960)に再建された。
函館空港からレンタカーで走ること2時間強で松前へ到着。役場の隣の駐車場へ車を停め、馬坂から登城する。
馬坂は藩士の登城ルートで、初代藩主の四男・数馬之介由広がこの坂で斬られ、古くは数馬坂と呼ばれたという。
石橋を渡り、馬坂門跡を入ったところが三の丸跡。
天神坂門は外郭から三の丸に至る門。平成14年(2002)に復元された。
三の丸跡と二の丸跡との間の外堀。
反橋のところ、番所跡の前には松前城の縮小模型が置かれている。
外堀に架かる反橋を渡り、三本松土居の横を通って進むと、搦手二ノ門が建つ。平成12年(2000)に復元されたもの。搦手二ノ門をくぐると二の丸跡へ出る。
二の丸跡南東角部に位置する太鼓櫓跡。海岸線から城下町、三の丸まで見渡せる最も重要な櫓であったという。
搦手二ノ門の北側、東郭にある隅櫓跡。主に東方から侵入する敵を監視する位置にある。
正門から天守へ入る。天守内は松前城資料館となっており、松前藩の御用船であった長者丸の道具や、藩政時代の資料などが展示されている。
外へ出て、天守の北側を通って本丸御門をくぐり、南側へ回る。
天守は三重三階の層塔型。昭和まで残っていた天守のうちのひとつ。現存12天守以外の7基のうち6基は戦災で焼失したが、松前城天守は昭和24年(1949)に火災で焼失。
現存する本丸御門は、二階の高さが低く、屋根は切妻造。安政元年(1854)の建立。国の重要文化財に指定されている。
本丸御門の近くには、本丸表御殿玄関が建っている。明治の廃城後、移築されて小学校の玄関として利用されていたものをこの場所に再移築したという。
北側へ回り、内堀越しに天守北東面を眺める。
本丸跡北には松前神社があり、さらにその北側には寺町が広がっている。
寺町門跡。
外堀跡。
松前藩主の菩提寺の法幢寺。大洞山曹洞宗の寺。
裏手には松前歴代藩主の松前家墓所がある。
もう一度本丸跡へ戻る。天守の北側に広がる本丸表御殿跡。
表御殿跡から天守を望む。
この後、「松前の春は江戸にもない」と言われた藩政時代の城下の街並みを再現したテーマパーク「松前藩屋敷」へ行ってから駐車場へ戻る。