61城目 No.80湯築城(2009年7月31日登城)
湯築城は、建武年間(1334~38)に伊予の守護・河野通盛が築いて、伊予支配の居城としたのに始まるという。戦国期にいたり、天文4年(1535)頃、河野弾正少弼通直が外堀を築き、娘婿の村上通康との関係を強化し、戦国大名へと成長するが、天正13年(1585)、豊臣秀吉の四国平定の際、河野氏最後の当主・通直は小早川隆景に降伏し、城を明け渡し、河野氏の伊予支配に終止符が打たれた。
小早川隆景の後、福島正則が入城するが、関ヶ原の戦い後に加藤嘉明の封地となり、松山築城によって廃城となった。
現在、丘の周囲に二重の堀をめぐらせた城跡全体が道後公園となり、復元区域には武家屋敷や湯築城資料館、土塁展示室が設けられている。
JR予讃線松山駅前から伊予鉄道の道後温泉行き路面電車に乗って向かう。道後温泉の一つ手前の道後公園電停で下車すると、目の前が城の搦手門にあたる西口の入口。
城の周りには外堀がめぐらされている。
西口から入って右の方が復元区域となっている。一番手前には湯築城資料館が建っている。
まずはここに入館。発掘調査の成果や河野氏の歴史、城内の武士の生活について、パネルや出土遺物、映像を使って展示されている。
資料館の展示を見学し、パンフレットをもらって外堀の土塁と復元された土塀の間の通路を歩いて復元区域の散策に向かう。
少し進むと、武士居住区の門が見えてくる。土塀は川原石を使って二列の石列を作り、間に小さな石を詰めて2~3段の高さの基礎を立ち上げ、その上に粘土のブロックを積み重ね、表面に壁土を塗って仕上げたのだという。
復元区域には2棟の武家屋敷が建てられている。発掘調査の成果を基に間取りを推定し、当時の工法で復元されたという。
武家屋敷1の内部には、当時流行した連歌の場面が人形を使って再現されている。
武家屋敷2では、外観復元した建物の内部を展示施設として活用し、中世の道具類や職人の活動などについて展示されている。
武家屋敷の裏へ回り内堀の方へ進んでいく。
湯築城には堀が二重にめぐらされており、内堀は中央の丘陵に簡単に攻められないようにするためのもの。さらに守りを固めるため、堀を掘った土を掻き揚げて内堀土塁としている。
外堀土塁の内側には道路と排水溝がめぐる。道路に接して流れる排水溝は、大小さまざまな大きさの川原石を積み上げて作られている。
外堀土塁も、外堀を掘ったときに出る土を盛り上げて造られた掻揚げ土塁。土塁の内部に入ってその断面を見ることができる土塁展示室が設けられている。
この後、上級武士居住区などを散策し、路面電車の電停へ戻る。