58城目  No.11二本松城(2009年7月19日登城) | 城めぐりん

58城目  No.11二本松城(2009年7月19日登城)

 二本松城は、嘉吉年間(1441~43)に奥州探題の畠山満泰が築城したのが始まりだという。以後140余年、畠山氏9代の居城として威容を誇るが、天正14年(1586)に伊達政宗の攻撃を受け落城。政宗は片倉景綱・伊達成実を城代として、この地を統治した。

 天正18年(1590)、豊臣秀吉の奥州仕置で伊達氏が会津を没収されると、二本松城は会津若松城に入った蒲生氏郷の支城となり、石垣を用いた近世城郭として整備された。慶長3年(1598)、蒲生氏が改易となると、上杉景勝が会津に入封し、城代を置いた。関ヶ原の戦い後は、再び蒲生氏が会津に入って、二本松城を管理。寛永4年(1627)からは加藤氏が入り、寛永20年(1643)には丹羽長秀の孫・光重が白河から移り、以後、明治まで丹羽氏10代の居城となる。

 城は、標高345mの白旗ヶ峰と呼ばれる丘陵の頂上に本丸を置き、南麓には新御殿、御部屋住居、二の丸御殿が建てられ、藩政の中心となっていた。

 戊辰戦争の際には奥羽越列藩同盟に加わり、新政府軍に攻められ落城した。このとき守備についていた二本松少年隊の悲劇は有名である。


 JR東北本線の二本松駅から徒歩で向かう。20分ほど歩くと、霞ヶ城公園の駐車場のところへ到着。高々と築き上げられた石垣が目に入る。


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 昭和57年(1982)に復興された正門にあたる箕輪門、二重櫓、多聞櫓。


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 藩士集合地であった「千人溜」の場所に、二本松少年隊を顕彰する群像が建つ。


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 箕輪門から登城する。


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 箕輪門とは、門の材料の樫の木の産地・旧藩領箕輪村から名付けられたという。


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 箕輪門からそのまま進んで、塀重門跡の枡形石垣を抜ける。


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 そのまま上っていくと三の丸跡の広場へと出る。ここは毎年開催される二本松菊人形展の会場にもなっている。


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 ここから山頂の本丸跡を目指す。山道をしばらく登っていくと、途中、日影の井戸がある。「日本三井戸」の一つとされ、畠山氏築城の頃の応永年間に造られたという。


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 さらに登っていくと、本丸下南面大石垣が現れる。二本松城に築かれた最も古い石垣のひとつで、積み方は古式の穴太積み。


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 そのまま進んでいくと、本丸石垣が見えてくる。発掘調査の結果、慶長期の穴太積みの様式や、元和・寛永期の様式、さらに、江戸時代後半期の様式が確認されたという。平成5年(1993)から学術調査とあわせ石垣の全面修築・復原工事に着手され、平成7年(1995)に完成した。


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 石段を登って本丸跡へ向かう。


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 石段を登ると枡形虎口になっている。


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 枡形虎口を上がって本丸跡へ出る。


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 東櫓台跡。


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 西櫓台跡。


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 本丸跡北角の天守台跡。


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 本丸跡からの眺め。


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 本丸の石段を下り、石垣の横を歩いて搦手門跡の方へ向かうことにする。


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 城の裏手に位置する搦手門跡の石垣。


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 搦手門跡から、少年隊の丘と呼ばれている、戊辰戦争直前まで砲術稽古場であった跡地へ行く。ここには二本松少年隊顕彰碑が建っている。


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 城跡の散策を終え、もう一度歩き、途中、二本松市歴史資料館へ寄ってから駅へ戻る。



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