57城目  No.12会津若松城(2009年7月18日登城) | 城めぐりん

57城目  No.12会津若松城(2009年7月18日登城)

 古くは黒川と呼ばれた会津若松の地に、南北朝時代に葦名直盛によって城の原型が築かれたという。以後、会津地方を治める葦名氏歴代の本拠となる。

 天正17年(1589)、葦名義広は摺上原の戦いで伊達政宗に敗退し、政宗が黒川城に入城する。しかし、翌天正18年(1590)、小田原北条氏を滅ぼした豊臣秀吉は、奥州仕置にとりかかり、伊勢松坂から蒲生氏郷が会津92万石と黒川城を与えられ入城した。氏郷は、「黒川」と呼ばれていた城下を「若松」と改め、文禄元年(1592)、町割の整備と城の大改修を手がけ、七重の天守を築き、城名を「鶴ヶ城」とした。

 慶長3年(1598)、蒲生氏が宇都宮に移封となると、越後から上杉景勝が封ぜられるが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで西軍に属したため、米沢30万石へ減封となり、翌年、再び蒲生秀行が城主となる。その後、寛永4年(1627)には伊予松山から加藤嘉明が入封。後継の明成が西出丸と北出丸を増築するとともに、慶長年間に地震被害を受けた後の天守を、今に見る五層に改めたという。

 寛永20年(1643)、加藤氏が改易となると、徳川秀忠の庶子・保科正之が出羽最上から23万石で入城。3代正容から松平姓となり、明治まで松平氏9代の居城となる。幕末の藩主・松平容保は京都守護職を務めた。

 戊辰戦争のおりには、旧幕府軍と新政府軍による激戦が行われ、新政府軍の猛攻に耐えるも、開城を余儀なくされた。「白虎隊の悲劇」が生まれたのもこのときである。

 天守は、明治7年(1874)に取り壊されたが、昭和40年(1965)に外観復元された。


 北出丸交差点から車のまま城内へ入っていく。北出丸への入口の追手門跡の枡形の石垣の間を車で抜けて進む。


城めぐりん-会津若松1



 北出丸は、寛永16年(1639年)、加藤明成の時に北馬出を出丸に作り替えたもので、本丸を守る上で重要な役割を担う出丸であったという。


城めぐりん-会津若松2


 北出丸の西門跡を抜け、搦手門跡から駐車場となっている西出丸跡へ入って車を停める。西出丸も北出丸と同様に、加藤明成の時代に馬出を改造して築かれた出丸。ここから梅坂を通って本丸の方へ歩いていく。


城めぐりん-会津若松3



 西中門(弓門)跡の石垣の間を抜けると本丸帯郭へ出る。


城めぐりん-会津若松4



 ここから昭和40年(1965)に鉄筋コンクリート造で外観復元された天守を北西側から望む。


城めぐりん-会津若松5



 左の方へ進むと観光案内所があり、そこからさらに左に行ったところが太鼓門跡の枡形。太鼓門は本丸北側に設置された城門。北出丸から本丸へは椿坂を通り、この太鼓門から入る形になる。往時には、両側の石垣上に多聞形式の渡り櫓門が建ち、中には大太鼓が置かれていたという。


城めぐりん-会津若松21



 ここの石垣には、本丸帯郭北面の太鼓門へ昇降する武者走り石段が見られる。緊急時に使用されたという。


城めぐりん-会津若松6



 裏門跡を抜けた右手の券売所で入場券を購入し、天守の中へ入る。


城めぐりん-会津若松7



 天守の内部は体験型のお城ミュージアムとなっている。訪れたときは、ちょうどNHK大河ドラマ「天地人」の放映中ということもあって、非常に混雑していた。

 天守より南走長屋と干飯櫓を眺める。


城めぐりん-会津若松8



 天守から売店のある走長屋を抜け、外へ出る。

 鉄門は、帯郭から本丸内の奥御殿に通じる櫓門形式の表門で、鉄張りの門扉だったことからその名がある。戊辰戦争時に、建物が頑丈であるとともに、大砲の死角になったことから、藩主・重臣はここで指揮をとったといわれている。


城めぐりん-会津若松9

城めぐりん-会津若松10



 鉄門から先の南走長屋と干飯櫓は、平成13年(2001)に木造で復元された。干飯櫓は、保存食である干飯の貯蔵庫として使われていた。南走長屋は、鉄門から続いており、帯郭と本丸を隔てる重要な位置にある。天守から鉄門をつなぐ走長屋とともに、帯郭から本丸への敵の侵入を防ぐ要としての役割を果たす。内部は公開されている。


城めぐりん-会津若松11



 本丸御殿跡には建物の礎石が残されている。


城めぐりん-会津若松12



 本丸御殿跡、東南から天守を望む。


城めぐりん-会津若松13



 本丸東南角石垣上にある月見櫓跡。武器が収められていた二重櫓であったが、櫓にかかる月影が美しかったことから月見櫓と称されたという。


城めぐりん-会津若松14



 月見櫓跡の北には茶室「麟閣」が建つ。千利休の養子、茶人・千少庵作と伝わる茶室で、明治5年(1872)に城外へ移築されたものを、平成2年(1990)に城内本丸の往時の位置に戻された。


城めぐりん-会津若松15



 さらに北へ行ったところが御三階跡。御三階は蒲生氏郷時代の創建ともされ、明治維新後に建物は城下の阿弥陀寺に移築されて現存する。


城めぐりん-会津若松16



 裏門跡から本丸跡の外へ出て東の方へ進むと廊下橋門の枡形石垣に出る。


城めぐりん-会津若松17



 廊下橋門は蒲生時代には大手門であったという。


城めぐりん-会津若松19



 二の丸から本丸帯郭東側に架かる廊下橋は、有事の際には切り落とされ、また、見透かされないように屋根の有る構造であったという。


城めぐりん-会津若松20



 二の丸跡から望む本丸跡東面の高石垣。廊下橋周辺の石垣は加藤氏時代に築かれたもので、高度な石垣造成技術が見てとれる。


城めぐりん-会津若松18



 この後、二の丸跡を通り、二の丸東門跡から三の丸跡の方へ進み、そこに建つ福島県立博物館へ行って展示を見学してから駐車場へと戻る。



城めぐりん