54城目 No.14水戸城(2009年6月27日登城)
水戸城は、那珂川と千波湖に挟まれた台地の先端に築かれた平山城で、鎌倉時代の初期、常陸大掾の馬場資幹によって築かれたのが最初と考えられる。馬場(大掾)氏による約200年の統治の後、常陸守護代の江戸通房が馬場(大掾)氏を追放、城を奪って拡張整備し、水戸城と改称したという。
天正18年(1590)、佐竹義重・義宣が水戸城を攻めて城主の江戸重通を追い出して、近世城郭へと整備。佐竹54万石の城下町となる。
関ヶ原の戦い後、佐竹義宣は出羽秋田へ移封され、徳川家康の五男武田信吉が入封。早世した信吉の後、家康の十男頼宣が入り、続いて慶長14年(1609)に十一男頼房が入封し、大規模な改修が施された。以降、徳川御三家の一つ、水戸徳川家の居城として明治まで続いた。
幕末の藩内抗争と明治の廃城令で多くの建物が損壊し、残った三階櫓も昭和20年(1945)の戦災で焼失した。
JR水戸駅の北口から歩いて本丸跡の方へ向かう。土曜日なのに高校生がたくさん歩いているなと思ったら、どうやら学園祭をやっている模様。
坂下門跡のところから入って、本城橋を渡り、高校生たちに混じって本丸跡にある水戸第一高校へ行く。本城橋の下はJR水郡線が走っていて、ここはかつて本丸と二の丸の間の空堀であったところ。
高校の敷地へ入っていいのかと思ったが、史跡見学であればいいようである。
水戸第一高校の敷地内には、水戸城唯一の建築遺構である薬医門が建っている。本丸から二の丸へ通じる橋詰御門と推定されている。市内の祇園寺に払い下げられていたものを、昭和56年(1981)に現在地へ移築されたとのこと。
本丸跡から二の丸跡の中を西へ歩いていく。二の丸跡もほとんど3校の学校敷地となっている。二の丸跡の西端には土塁によって大きな枡形が設けられている。
二の丸と三の丸の間に架かる大手橋。空堀跡は現在県道になっている。水戸城の大手は、佐竹時代の東側から、徳川時代に西側に移されたという。
大手橋を渡ると正面に弘道館の門が見える。弘道館は、9代藩主徳川斉昭が、天保12年(1841)に水戸城三の丸に建てた藩校で、全国の藩校の中で最大の規模を誇ったという。
正庁は学校御殿ともいい、弘道館の中心をなす建物で、藩主が臨席して文武の試験を行ったところ。明治元年(1868)、天狗党との戦闘で諸生党は弘道館に立てこもり、そのときの弾痕が正庁玄関や正門の柱に残っているという。
来館者控えの間である正庁諸役会所。
一旦外へ出て、正庁の建物の西側へ回る。ここには斉昭の教育方針を記した「弘道館記」の碑を納めた八卦堂や、孔子廟が再建されている。孔子廟の北側には学生警鐘の鐘楼がある。
三の丸跡北側の土塁と空堀。
三の丸跡に建つ県三の丸庁舎の西側へ回ると、大きな空堀跡が残されている。三の丸西端の外堀で、城内と町家を区画する役割をもっていたという。
この後、水戸駅へ一旦戻り、そこからバスで茨城県立歴史館へ行く。