47城目  No.16箕輪城(2009年5月29日登城) | 城めぐりん

47城目  No.16箕輪城(2009年5月29日登城)

 箕輪城は、明応9年(1500)頃、関東管領山内上杉氏の重臣・長野氏によって築かれたとされる。天文21年(1552)に山内上杉憲政が越後に逃れた後、事実上西上野の支配者となった。天文23年(1554)、永禄2年(1559)の2度武田軍に攻められたが、いずれも長野氏は守りきった。しかし、永禄7年(1564)頃には周囲の城が武田軍に攻め落とされ、箕輪城は次第に孤立。永禄9年(1566)、侵攻してきた武田信玄により、ついに箕輪城は落城した。信玄は内藤昌秀を城主とし、引き続き上野支配の拠点とした。

 武田氏滅亡後は、北条氏の城となるが、織田信長の家臣・滝川一益が城を奪って入城。しかし、本能寺の変直後の神流川の戦いで北条氏に敗れ、城は北条氏邦の持ち城となる。その後、豊臣秀吉の小田原攻めの際には、さしたる抵抗もなく開城した。

 徳川家康が江戸に入ると、箕輪城には家臣・井伊直政が入城。石垣を築いたり、改修を行った。慶長3年(1598)に直政は和田城に城を移したため、箕輪城は廃城となった。


レンタカーで高崎市役所箕郷支所へ寄り、パンフレットをもらってから、城の搦手口から入って二の丸跡の駐車場へ車を停める。


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 二の丸跡は現在、梅林になっている。持久防御のための本丸に対し、二の丸は出撃のための拠点であったという。三の丸跡につながる西虎口では礎石を用いた門跡が検出されている。


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 二の丸跡から本丸跡の方へ歩いていくと、本丸門馬出跡がある。


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 本丸跡の入口に建つ箕輪城址銘碑。


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 本丸跡へと入る。二の丸、御前曲輪、蔵屋敷につながる3箇所の虎口では、石組の排水溝や門跡が確認されており、曲輪内で建物を区画すると思われる溝が多数検出されているという。


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 本丸跡から御前曲輪跡へと進んでいく。本丸と御前曲輪の間は空堀となっている。


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 御前曲輪は本丸の一部で、詰の曲輪の役割を持っていた。西南角には櫓が設けられ、櫓台の下は石垣で固められていたという。


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 御前曲輪跡から掘切部分へと下りていく。堀底の部分が遊歩道となっている。


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 そこから北の方へと進んでいくと丸馬出に出る。


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 もう一度戻り、本丸跡西側の掘切を歩いて、三の丸跡へ向う。三の丸では、城内で最も高い4mの石垣が使われていたという。


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 三の丸門跡の石垣。


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 三の丸跡と二の丸跡の南側は大堀切となっている。城を南北に分断しており、南側が落とされても、城の主要部の北側を守ることができる。大堀切に唯一ある土橋を、二の丸跡から南に渡ったところが郭馬出跡。


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 郭馬出は、南側に出撃する拠点の役割を持ち、調査の結果、西側の虎口で幅5.4m、奥行3.6mの門跡が確認されたという。


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 その後、車へ戻って、大手虎韜門口の方へも行ってみる。長野氏時代はこちらが搦手であったという。ここにも駐車場がある。


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