35城目  No.36丸岡城(2009年4月29日登城) | 城めぐりん

35城目  No.36丸岡城(2009年4月29日登城)

 丸岡城は天正4年(1576)、柴田勝家の甥・勝豊が築城したとされる。勝豊が長浜城へ移った後、丹羽長秀の支配を経て、青山宗勝・忠元が入城。関ヶ原の戦い後に所領は没収となり、慶長6年(1601)、結城秀康の重臣・今村盛次が在城する。慶長18年(1613)に、松平忠直の付家老・本多成重が入城。寛永元年(1624)に福井藩から独立し、丸岡藩が成立した。本多氏改易後に有馬清純が入封し、明治まで続いた。

 かつては、周囲に五角形の大きな水堀をもち、変形の虎口空間を備えるなど軍学的知識に基づく技巧的な縄張であったというが、現在では山麓の堀や曲輪、石垣はほぼ失われ、本丸部分を残すだけとなっている。


 一筆啓上茶屋前の駐車場に車を停め、坂を登っていくと、すぐに二重三階の天守が表れる。現存天守の中で最古のものであるといわれる一方で、最上階の廻縁の装飾化、1、2階の通柱がないという点など、慶長後期の特色もみられることから、慶長18年(1613)に城主となった本多成重によって築かれたものとの見方もあるという。

 昭和23年(1948)の福井大地震で倒壊し、同30年(1955)に可能な限り倒壊前の建材を使用して修復再建された。

 天守閣石垣の東北端には、徳川家康譜代第一の功臣・本多作左衛門重次が陣中から妻にあてた手紙「一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥せ」の、有名な一筆啓上書簡碑が建っている。


城めぐりん-丸岡1



 天守石段脇に鯱が置かれている。丸岡城の鯱は木彫銅板張りであったが、昭和15年(1940)からの天守解体修理の際、戦時中で銅版が手に入らなかったため、笏谷石製に代えられたという。この石製の鯱も福井大地震のときに落下して壊れたため、現在の鯱は昭和27年(1952)に木製銅板張りで復元されたもの。


城めぐりん-丸岡2



 天守の中へ入ってみる。天守へ至る真っ直ぐな石段は、当初からあったものではなく、江戸期の改修とみられているとのこと。


城めぐりん-丸岡3



 天守の2階、3階への階段は非常に急で、ロープにつかまらないと昇り降りできないほどである。

 1階の南・西・北面の中央には、引き違い板戸の出格子があり、床板をはずすと石落しになるようになっている。周囲には居狭間と立狭間が交互に設けられている。


城めぐりん-丸岡5



 2階は屋根裏階となるため、四方の破風内に採光のための窓が設けられている。


城めぐりん-丸岡7



 3階には、窓外に廻縁が設けられているが、3階床面より高い位置あって直接出入りすることは難しい。実用的なものではなく、格式を高める装飾のためのものであると考えられる。


城めぐりん-丸岡4

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 3階から丸岡の街並みを眺める。


城めぐりん-丸岡8



 もう一度天守の外へ出る。

 天守初重は天守台の端いっぱいではなく、内側に控えて建てられているため、雨水の進入を防ぐ工夫として、腰屋根が設けられている。


城めぐりん-丸岡9



 天守の屋根瓦は、福井市足羽山や一乗谷付近で採石される青みを帯びた笏谷石で葺かれている。これは、寒冷地であるため、寒暖の差による破損を防ぐため使用されているとのコトである。


城めぐりん-丸岡10



 この後、霞ヶ城公園の一角にある歴史民俗資料館で、歴代城主ゆかりの武具や古文書などの展示を見学してから車へ戻る。



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