群馬県南牧村、下仁田町、長野県佐久市の廃校休校巡り(2016/08/09) | haiko-riderのブログ

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2010年春から現在まで、趣味で廃校休校巡りをしてます。
これまでに訪れた校舎や思い出を記事にしてます。
無分別な廃墟探索とは全く異なりますので、誤解無きように。

南牧村(なんもくむら)は、群馬県甘楽郡(かんらぐん)に属し、
県西南端の山の中、人口2200人程の過疎の村です。
高齢化率日本一の自治体で、2015年国勢調査における

老年人口割合は60.5%となっています。

 

下仁田町(しもにたまち)も甘楽郡に属し、県南西部の町です。
町面積のうち山林が約84%を占めています。
下仁田ネギと下仁田こんにゃくを始めとする郷土の農産物、
姫街道の宿場町として栄えた町並みなど、豊かな自然、

歴史と伝統があります。

地球科学的に貴重な資源が多く存在すること、

それを活かした活動が行われていることなどから、
2011年9月に全域が下仁田ジオパークとして

日本ジオパークネットワークに加盟認定されています。

佐久市(さくし)は、長野県東信地方の市であり、

群馬県との県境に位置し、日本で一番海から遠い地点があります。

2005年(平成17年)4月1日 (旧)佐久市が北佐久郡望月町・浅科村・

南佐久郡臼田町と合併して(現)佐久市が発足しました。

古くは中山道と佐久甲州街道との交点であり、宿場町として発達し、
岩村田藩ならびに田野口藩の陣屋町としての側面もありました。
2005年4月には合併により長野県5番目の10万人都市となっています。

 

上野村から県道45号、湯の沢トンネルを抜けて南牧村に入ります。

檜沢(ひさわ)集落の中に往時の分校が残っています。

分校に下りていく民家の間に年季の入った門柱が立っています。

刻んだ文字は風化しつつありますが、「磐戸尋常高等小学校」と

確認できました。

坂道の先に赤いトタン屋根の玄関が覗いています。

 

こちらは、「檜澤分教場」ですね。

 

沿道下の広場にある分校は、民家と変わらないほどのこじんまりとした

平屋木造校舎です。

 

小さめの二宮尊徳像

全体的に劣化が進行しており、台座には青く苔生しています。

長い歳月を風雪に堪えてきたのでしょう。。

 

片隅のブランコはまだ乗れそうです。

 

独特の形状のジャングルジム

長らく遊ばれなくなったのか茶色に錆びてしまっていますが、

現在は、園芸用の支柱?となり、植物のツルが遊んでいました。

 

50mもない狭い校庭

 

反対側から撮った分校

軒先に物干し台が見えますが、住人はいない様子です。

 

磐戸小学校檜沢分校(1982年閉校)

一見すると普通の民家と思ってしまうほどの小さな平屋の建物です。

正面玄関に「山の学校」の表札がありましたが、

閉校後は、林間学校として使用されていたようです。

現在は人影もなく静かな佇まいです。

背の高くなった2本のシュロの木は、往時から児童達を見守っていたことでしょう。

 

南牧村役場を過ぎて、県道93号を南牧川に沿って上流へと進みます。

遠方に学校らしき建物が見えてきました。

 

尾沢小学校(1994年閉校)

閉校後は、村の民俗資料館として使用されています。

展示内容は生活用具をはじめ、農耕、林業、生産生業、教育文化、芸能、
行事等々すべての分野にわたり、約4,000点が展示されているそうです。

特に、砥石・養蚕・和紙・蒟蒻・麻等は、地域の特産品でもありました。

南牧村の過疎化により、村内の児童数は年々減少し、村西部にあった

尾沢小学校・村中央部にあった月形小学校が統合して(旧)南牧小学校となりましたが、

さらに2002年には磐戸小学校・(旧)南牧小学校が統合して磐戸小学校となり、
村では唯一の小学校となってしまいました。
2005年からは再び南牧小学校と名称変更し、現在に至っています。

尾沢小学校の1991年度の在校児童は30名でしたが、現在の南牧小学校はさらに少なく

25名となっており、(2016年4月1日現在)消滅の危機に直面しています。。。

 

さきほどの尾沢小学校に行く手前の橋を渡らずに、右側の坂道を

上った場所に往時の中学校が残っています。

 

2階建木造校舎ですが、正面に見えるのが普通教室棟です。

右側の特別教室棟に続く渡り廊下が遮蔽になり

全景を撮ることはできません。

 

中学校跡の石碑

 

長く突き出た突き出た煙突が冬場の厳しさを伝えています。。

 

野外で行事をしたのでしょうか。

キャンプ用の椅子が戸口に置かれていました。

 

入口の表札から、レストランとして利用されているとわかりました。

せせらぎの一文字は読めない漢字です。

 

許可を頂いて特別教室棟の各教室を見学しました。

図工室でしょうか。段ボールやビニール袋等が置いてあり

雑然としています。

黒板に班名が描いてありますが、意味不明です。

ドンチャッックとは、1975年~1978年に放映されたテレビアニメ、

ドンチャック物語の主人公のことでしょうか。。。

 

来訪者の残したメッセージボード

学校や豊かな自然への感謝、郷愁等が感じられます。

毎年書き換えられていくのでしょうね。

 

往時の体操服用・学生服の名札

掃除をしたら出てきたそうです。

 

夏の日差しが廊下に落ちています。

 

階段の踊り場は、匠の腕前を図る場所の一つです。

 

尾沢中学校(1988年閉校)

狭い敷地に、普通教室棟と特別教室棟の2棟がくの字に立っています。

前者は、レストランや調理場として利用されており、

後者は、かつて「森の学校」という自然体験施設として使用されていましたが、

現在は特に活動はされていない様子です。

 

県道45号を北上し、南牧村から下仁田町に入ります。

途中、跡倉集落から青倉川に沿って県道172号を南下します。

土谷沢集落に差し掛かると、高台に木造校舎が見えました。

 

バイクを停めて近付いて行くと、往時の分校跡の石碑が立っています。

 

石柱の裏側には、開校明治18年、閉校昭和56年とあります。

山間部の分校ですが、約1世紀の歴史があるのですね。

 

校舎の周囲に雑木が生い茂り、資材やビニールシートが無造作に

置かれて雑然としています。

長らく手入れもされていないようです。

 

校舎の一角に犬小屋が設けられています。

番犬が予期せぬ訪問者を警戒しています。

 

青倉小学校土谷沢分校(1981年閉校)

右手に窯元の看板があり、陶芸家の作業場となっているようですが、

人影も見えません。かなり荒廃した外観です。

写真を撮っていると、地元のおじさんに「暑いから休憩していかないか」と

声を掛けられました。

「結構です」と遠慮したのですが、半ば強引に隣家に招き入れられ

分校と地域の変遷について持論を展開されました。。。

別の廃校サイトでも登場しているおじさんなのですが、きっとこのように

話し相手を探しておられるのでしょうね。

 

県道172号を折り返し戻る途中で3階建ての鉄筋校舎が見えました。

校舎に掛かる垂れ幕や横断幕から、閉校後の再生した姿を

確認できました。

群馬県下仁田町は、世界的レベルの地質学的な資源がたくさんあり

地質の宝庫といわれ、日本でも5指に入るほど貴重な場所だそうです。

「下仁田町自然史館」として再生利用されており、空き教室には

展示室や実習室が設けられています。

子供たちが駆けっこをした校庭は、アスファルトの駐車場となっていました。

 

二宮尊徳像

2階の窓から見えるほどの高い位置に立っています。

 

薄汚れたブロック塀に、校章と閉校記念の文字が見えます。

やがて風化していくことでしょう。。

青倉小学校(2009年閉校)

学年によりバラつきがありますが、閉校時の全校児童は

31名だったようです。

青倉小学校は、下仁田小学校への統合に伴い閉校となりました。

ちなみに、タレントの井森美幸さんの母校だそうです。

 

下仁田町中心部を経て国道254号を長野県境方面に進みます。

次の目的地は、東野牧地区の沿道から脇道を入って行くのですが、

地元の方に聞かないとわからないと思います。

上の写真の横断歩道の標識と止まれの標識の間の脇道を

進みます。

 

開けた場所に着くと、2階建て木造校舎がこちらを向いていました。

 

瓦屋根に板張りの校舎ですが、窓はサッシに替えられています。

玄関もサッシのドアに天板一枚の簡素な造りです。

 

アルミサッシが目立つ外観は、木造校舎の温もりが伝わってきませんね。

 

二宮尊徳像

 

学校跡記念碑

 

校庭の一角に記念植樹の石柱が立っていました。

比較的新しいものですが、本校になる前は小坂小学校の分校

だったのですね。。

 

東野牧小学校(1985年閉校)

地元の方に聞いたところ、最近まで画家達がアトリエに使用していたが

立ち退きを余儀なくされ、取り壊される予定とのことです。

 

国道254号(信州街道)を西へ進み、県境を越え長野県佐久市に入ります。

旧志賀村に往時の廃校舎が残っています。

 

年季の入った木造校舎が木々に囲まれ並んでいます。

増築した小屋やブルーシートを被せた資材が目立ちます。

 

奥行きのある長い棟が渡り廊下でつながっており、

かなり広い敷地に建っているので、往時は少なからぬ児童が

いたはずです。

 

奥行きのある長い廊下

雑巾がけは当時の児童らに取って大変だったことでしょう。。

壁には地域のイベントなどのポスターが張ってあり、

行政施設として使用されているようです。

 

小学校跡記念碑

 

創立百周年記念碑

 

志賀小学校(1990年閉校)

沿革をみると、1873(明治6)年、志賀学校として創設され、

1886(明治19)年、尋常小学志賀学校とりなり、
1990(平成2)年、三井小学校と統合により閉校となっています。

現在は、佐久市教育委員会の文化財課の施設として使用されているのですが、

雑然とした外観から手入れもされていない様子です。

 

佐久市街の中込地区(旧中込村)に明治時代初期の洋風校舎が

残っています。

 

旧中込学校は明治8年(1875年)に完成し、国内の学校建築のうち

現存する最古級の擬洋風建築物で、長野県宝、国重要文化財に指定されています。

 

綺麗にガーデニングされており、エキゾチックな雰囲気が

漂っています。

 

中央の八角塔は、天井から太鼓を吊るして時を告げ、

村人たちはこの太鼓の音で正午や10時、3時のお茶の時間を知り、
いつしか「太鼓楼」と呼ぶようになったそうです。

天守瓦に「中込」の文字がはっきり見えます。

 

旧中込学校(きゅうなかごみがっこう) 

1919年に新校舎が完成すると、旧校舎は中込町役場、中込町公民館、

中込支館、佐久市役所分室、佐久市開発公社と再利用されました。

青空に伸びる白亜の八角塔が印象的な洋風木造校舎です。

 

国道141号を南下し大沢地区に入ると、

明治中期の木造校舎を見ることができます。

 

正面玄関はしっかりとした造りです。

建築資材は村の共有林を用い、村民が総動員して校舎を建てたそうです。

教育に対する村人たちの熱い思いが伝わってきます。

灯篭型のランプや奥の半円形の窓が洒落ていますね。

 

佐久市の有形文化財に指定されています。

 

小学校跡記念碑

旧大沢小学校(1983年閉校)

明治25年(1892年)に大沢尋常小学校として建築された学校建築物で、
比較的往時の状況を残し学術上価値のあるものとされています。
寄棟屋根の堂々たる木造建築物です。

なお、隣の鉄筋の建物は地区の体育館です。

野沢小学校への統合に伴い閉校となってしまいましたが、

往時の校舎が文化財として保存されていることは、旧大沢村民及び

卒業児童らの誇りとなっていることでしょう。。