高知県大川村、土佐町、いの町の廃校休校巡り(2016/04/30) | haiko-riderのブログ

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2010年春から現在まで、趣味で廃校休校巡りをしてます。
これまでに訪れた校舎や思い出を記事にしてます。
無分別な廃墟探索とは全く異なりますので、誤解無きように。

前回に続き、高知県「土佐嶺北」地域の廃校休校巡りです。

県中北部の嶺北地域の4町村は、前回掲載した大豊町、本山町と

今回掲載する大川村、土佐町です。

なお、いの町は嶺北地域に隣接しており、併せて訪問しました。

 

大川村(おおかわむら)は、高知県土佐郡にある村です。

離島を除くと、全国で最も人口が少ない村として有名です。
総人口402人 (推計人口、2016年2月1日)
高知県の北部に位置し、北側は愛媛県に接しており、。
特産品は大川黒牛、土佐はちきん地鶏、お茶などがあります。

 

土佐町(とさちょう)は、高知県北部中央に位置し、大川村と同じく土佐郡に属します。

同町は四国の中央部に位置する山に囲まれた所で吉野川の源流域にあたり、

面積の85%が山林です。
昔から林業が盛んで「れいほく材」の産地であり、土佐町の林野面積のうち82%が
杉・桧の人工林です。

土佐町を含む嶺北地域で育った杉は中心部が赤色を帯びるのが特色で「赤身杉」、
「土佐の赤杉」として知られています。

 

いの町(いのちょう)は、高知県の中央部に位置する町で、吾川郡(あがわぐん)に属します。

同町は、古くから土佐和紙で知られています。
2004年(平成16年)10月に吾川郡伊野町、吾北村、土佐郡本川村が合併(新設合併)し

誕生しましたが、その際、現在の平仮名表記となりました。
中央部には新町の都市軸となる国道194号が南北に走り、平成11年に新寒風山トンネルが

開通したことにより、高知県の北玄関として高知市と愛媛県西条市とを結んでいます。

 

四国最大の「水がめ」、早明浦(さめうら)湖

国道439号を離れ、土佐町に入り、早明浦ダム沿いに進みます。

壮大な景色が広がります。ダムで堰き止めた湖面は穏やかでした。

湖の少し括れたところに赤い吊り橋が見えます。

 

上吉野川橋

瀬戸大橋のミニモデルと言われ全長321mあります。

 

湖畔の沿道に石碑が。

遠方からみて、廃校跡の石碑かと思いましたが、

鎮魂碑でした。

早明浦ダムは、1977年に完成しましたが、これにより

本山町、土佐町及び大川村の2町1村で385戸・387世帯が水没の対象となりました。

そして、住民は住み慣れた故郷を離れ、過疎化が進行していきました。

 

往時の大川村役場だった建物も水没対象となりましたが、

渇水時には顔を出すそうです。

再び深緑色の湖面を見ると、住民の無念さを湛えているように

感じられました。。。

 

上吉野川橋を渡らずにさめうら湖の南側を進みます。

途中から山側に向かい急傾斜の林道を上っていきます。

人影もない淋しい道程が続きますが、山頂付近まで行くと

開けた場所に辿り着きました。

正門と表札は往時のまま残っています。

 

正門に続く花壇は綺麗に手入れされていました。

 

こじんまりとした平屋建て木造校舎が山を背にして建っています。

校庭も手入れされて雑草もありませんでした。

 

校舎の隣には、体育館が見えます。

 

小さな学校跡記念碑は、花壇に立っています。

 

和田小学校(2000年休校、2009年閉校)

人里離れた和田集落、山頂付近に位置する木造校舎です。

閉校になったものの、綺麗に手入れされており、集会所として

使用されているようでした。

 

大川村役場を過ぎ、県道6号を北上します。

途中、白滝橋を渡り朝谷川に沿って上流に進みます。

山頂付近まで上り詰めたところで、数棟の建物が並び

駐車場には数台の車が停まっています。

「自然王国 白滝の里」という宿泊・自然体験施設ですが、

かつては、小中学校校舎でした。

 

赤いスレート屋根に、薄いグレーの板張りの2階建て木造校舎です。

 

沿道傍に残る記念碑

何もない山奥に小中学校があったのは、白滝鉱山と関係があります。

白滝鉱山は、大川村の東北、朝谷部落の北部、四国山脈の南に面した

山の中腹にあった鉱山で、1916年(大正5年)に開かれました。

銅の産出が豊富な優良鉱山で、1972年(昭和47年)に閉山となるまで続きました。

鉱山関係の子弟達がこの小中学校に通い、昭和30年代は

児童・生徒数は500名以上に上りましたが、閉山に伴い廃校となってしまいました。

この記念碑は、同窓生等によって建立されたもので、山里の母校への忘れ難き

郷愁の思いが込められていました。

 

白滝小中学校(1971年中学校廃校、1972年小学校廃校)

 

白滝小学校の周辺の風景

白滝の里は、標高750mに位置し、愛媛県境の山脈が連なります。

 

大川村役場

さめうら湖から伸びた吉野川沿いにあります。

全国で最小人口の村役場は、自然豊かで静かな湖畔に

佇んでいました。。。

 

大川村役場を過ぎて、大川橋を渡り瀬戸川沿いに県道6号を南下していきます。

「南川学校前」のバス停付近で高台に上っていくと学校跡があります。

一段下にプール、校庭に錆びた鉄棒が残っています。

 

長らく使用されていないブランコ。

真ん中のは、座板がなくなっていますね。

 

正門は、先ほど上ってきた場所とは別の位置にありました。

墓石のような校歌碑が建っています。

 

小中学校一体となっていたためか、校歌は「南川校歌」とあり

小・中学校共通のようです。

 

石碑の裏側には、それぞれの閉校年月日が刻まれています。

 

往時の校舎は取り壊され、跡地には集会所が建てられています。

 

南川(みながわ)小中学校(小学校:1990年閉校、中学校:1983年閉校)

土佐町北部の山間部にあった小さな学校です。

 

隘路の多い県道6号をさらに南下し、国道439号にぶつかったところで、

一旦東へ進み、地蔵寺地区の沿道に閉校になった校舎があります。

学校の名前から、地域のコミュニティーセンターとして利用されているようです。

 

校舎は、少し歪な構造の建物にみえます。

体育館とは渡り廊下でつながっています。

 

役場の支所としても使用されているのですね。

 

学校跡記念碑ですが、沿革を刻んだ銘板は植栽に隠れて

判読できません。

 

こちらは、学校設立のために寄付をした方への記念碑です。

 

こちらの木造平屋の建物は講堂のようです。

 

地蔵寺小学校(2005年閉校)

訪れた日はGWということもあって、鯉のぼりが校庭を泳いでいました。

地蔵寺地区は、国道沿いにあるとはいえ、静かな山間集落です。

閉校後は、名高山小学校に統合されましたが、その校舎は

隣の集落にある平石小学校校舎と1年単位で交互に使用していました。

そして、2008年には土佐町小学校に統合となりました。

1991年度の在校児童は17名でした。

 

国道439号から平石川に沿って脇道を進みます。

平石集落は、山に囲まれた長閑な場所です。

丸木に表札がはっきり見えました。

 

手前が講堂、奥が教室のようです。

建物は閉校校舎ですが、現役校舎のように新しく、

まだまだ使用可能と思われます。

当日は、家族連れで野球を楽しんでいる和やかな光景を目にしました。

 

講堂の横顔です。

切妻屋根に丸い校章が見えます。

 

校門の傍らに創立115周年の記念石碑がありますが、

表面がつるっとしていて文字がはっきりと見えません。

 

平成19年(2007年)度の卒業生は2名だったのでしょう。

 

平石小学校(2005年閉校)

閉校後は、名高山小学校として、地蔵寺小学校と1年交代で校舎を

使用していましたが、こちらはもっと山奥に位置し長閑な集落です。

名高山(なこうやま)は標高626mの小さな山ですが、旧地蔵寺・旧平石小学校とも

近距離にあり地域のシンボルとなっている山です。

校舎は、木目を活かした温もりのある建物です。

閉校後も別の目的に使用されることでしょう。

1991年度の在校児童は9名でした。

 

平石集落の入口に聳える杉の木

毘沙門堂の四本杉と呼ばれ、土佐町の指定天然記念物となっています。

遠い昔から村人たちを見守ってきたことでしょう。

 

国道439号を西へ進み、吾川郡(あがわぐん)いの町に入ります。

いの町の最東部にあった学校が上東小学校です。

玄関ポーチもなく表札の隣の木板に「玄関」と掲けてあるだけの

簡素な玄関です。

かつての吾北村(ごほくそん)は、2004年いの町への合併に伴い

消えました。

 

校舎は、木造平屋建てです。

瓦屋根やスレート屋根、そして高さや配色も異なる建物が連なっています。

 

手前は、瓦屋根の校舎です。

図書、図工、音楽室で使用されていたのでしょう。

 

窓に貼ってある花祭りのポスター

「カタシ」とは藪椿「シャクジョウカタシ」のことです。

幹の大きさが日本一の「シャクジョウカタシ」の花見をしながら、

地元の物産や伝統芸能、コンサートや体験型イベントなどを楽しめる祭りの

会場となっています。

毎年、花が咲く3月下旬に開催されます。

 

年季の入った中学校跡石碑

この地に、中学校もあったのですね。

 

こちらは、百周年記念の銘板です。

 

校庭の片隅に立つ小学校休校記念碑

休校とありますが、再開の見込みはなさそうです。。

 

上東小学校(2000年閉校)

簡素な平屋建ての校舎が長く伸びています。

屋根の材質や色合いも異なっているので、

何度か増築を繰り返してきたものと思われます。

1991年度の在校児童は16名でした。

 

国道439号を西へ進むと下り坂が続きます。

津賀谷バス停付近の旧道に往時の校舎が残っています。

赤レンガの正門、大きな木板に校名が刻まれていました。

 

反対側は百葉箱と小さな二宮尊徳像です。

 

幼稚園のようなピンクの板張りの可愛らしい平屋建て木造校舎です。

 

沿革を刻んだ石碑

明治7年に開校、平成13年3月31日付で休校とありますが、

その後、平成20年には廃校となってしまいました。

 

レンガ塀に寄り添うように咲いたツツジが満開でした。

 

校舎の周りは樹木が生い茂り、全体を撮ることはできませんでした。

 

中央小学校(2001年休校、2008年廃校)

敷地が狭く、塀に囲まれているため、玄関も簡素なものです。

1991年度の在校児童は16名でした。

 

国道439号から国道194号へ進み北上します。

途中から県道294号に入り、人影もない険しい道程を走り続けます。

川窪集落は、落人の隠れ家的な秘境感の漂う集落です。

正門へ続く緩いスロープをゆっくり下りていきます。

 

災害避難所の看板が正門の表札より目立っています。

 

山の谷間は平地がほんどありません。

遠い昔から代々受け継がれてきたであろう棚田が

校庭の下に連なります。

 

下見板張りに木枠の窓、往時のままの木造校舎です。

 

映画のロケになった学校です。

しかし、陸の孤島のようなこの場所をよくロケに選定したものだと

感心します。。。

 

裏に回ると、2階から架けた避難用の橋が錆びた状態になっています。

長らく使用もされずに済んだということでしょう。

 

清水(きよみず)第二小学校(1995年閉校)

2階建ての校舎は、家屋も疎らな集落では大きな存在感があります。

山奥にひっそりと佇む姿は、村人たちが自然とともに営々と暮らしてきた姿を

映しているかのようです。

1991年度の在校児童は11名でした。