甲府市(こうふし)は、山梨県中部に位置する都市で同県の県庁所在地・特例市です。
甲府盆地の中央部を南北に縦断する形で位置しており、周囲を奥秩父山系、
御坂山地、南アルプスなどの山々に360度囲まれています。
市域全体の標高差は大きく、最低部は市域南部の笛吹川付近の標高約245m、
最高部は市域最北端、長野県川上村との境界にある金峰山の標高2,599mと
実に標高差は2,350mに達します。
市域北側の大半は秩父多摩甲斐国立公園に属し、奇岩と渓谷美で知られる
甲斐市(かいし)は、山梨県北西部の市です。
人口は7万人を超え、県内では甲府市に次いで第2位です。
2004年9月1日に旧竜王町、旧敷島町、旧双葉町が合併し誕生しました。
甲府盆地の中西部に位置し、市の西側には武田信玄が築いたと いわれる歴史的治水施設「信玄堤」、
北部には茅ヶ岳、太刀岡山等が位置するなどの緑豊かな自然環境を有しています。
市名は、山梨県の旧国名甲斐国に由来しています。
北杜市(ほくとし)は、山梨県内の自治体として最北端に位置しています。
2004年(平成16年)11月1日 北巨摩郡須玉町・長坂町・白州町・高根町・
大泉村・武川村・明野村が合併して発足しました。
その後、2006年(平成18年)3月15日 北巨摩郡小淵沢町が編入され、北巨摩郡は消滅しました。
八ヶ岳や甲斐駒ヶ岳といった山々に囲まれ、市域のおよそ3分の1が八ヶ岳南麓の
冷涼な山岳高原地からなっているため、高原観光によって支えられている街です。
ブルーベリーの生産量が多いことで知られており、山梨県北杜市・東京都小平市・茨城県つくば市が
「日本三大ブルーベリー」の地として有名です。
甲府駅北口は、休日の朝ということもあり、
人影も疎らでした。
広場の一角にレトロな建物があります。
ベランダの手摺、アーチ窓、屋根上の塔屋(太鼓楼)は
増穂小学校で見た旧舂米(つきよね)学校校舎と同じ
藤村式と呼ばれる建築様式です。
旧睦沢(むつざわ)学校校舎(日本国重要文化財)
明治8年(1875年)に旧南巨摩郡(現:甲斐市)睦沢村に建てられた校舎を
移築し復元したものです。
次に、睦沢集落に向かいました。
甲府駅からは、昇仙峡方面に進み、甲斐市亀沢地区に入ります。
県道101号の沿道から高台に上がると、
「睦沢地域ふれあい館」というコミュニティセンターがあります。
旧睦沢学校校舎が移築された後に、新築したものです。
その奥に老朽化した校舎が見えます。
2階建ての木造モルタル校舎です。
木枠の窓は年季を感じますが、ガラス窓が無くなっていたり、
壁に亀裂が入っていたり、特に改修もされていない様子です。
校舎の裏側に回ってみると、入口の屋根や柱は倒壊しそうな
状態です。湿気が多く壁のシミや汚れが目立ちます。
2階からの非常階段への接続部分は、手摺や床は抜け落ちる
危険性があります。
錆びたタンクに、敷島消防組と書かれています。
睦沢村→敷島町睦沢→甲斐市亀沢と変遷した時代の
ひとコマに活躍したことでしょう。
表面が白く光って判読しにくいですね。
市街から離れた小さな集落に、
かつて立派な洋式校舎があったことは、驚きですね。
甲府北口に移築・復元され旧校舎とは対照的に
小学校校舎は取り残されたように寂しく佇んでいました。
青空にそそり立つ奇岩は圧巻です。
平たい大きな岩は、円覚峰と名付けられています。
かつて、円覚という行者が岩の上で修行したそうです。
渓谷の水面から高さ180mあるそうです。
能泉湖を過ぎて熊笹に覆われた細い道を進んで行くと
甲府市最北端の集落、黒平(くろべら)があります。
集落の入口にある唯一の宿泊施設が「マウントピア黒平」です。
10棟のコテージがあり、夏季は野外活動やバーベキューで
賑わうようですが、海抜1,000~1,200mの高冷地に立地しているため、
冬季はかなり寒そうです。
受付ロビーの壁には村人たちの写真が貼ってあります。
白黒の色褪せた1950年代に撮ったものです。
周辺の村から隔絶した小さな集落のため、独特の文化や伝統を守って
暮らしていたものと思われます。
古来より「能三番」(のうさんば)という伝統芸能が残っているそうです。
昭和30年代までは炭焼きや水晶の採掘で賑わいをみせた村も
現在は、過疎高齢化により定住者は数名のみの限界集落です。
当日は、人影も無くひっそりと静まり返っていました。
奥の上黒平地区に黒平小学校があったそうですが、
既に取り壊しになって学校跡石碑のみ残っているようです。
昇仙峡ライン(県道7号)に戻り、御岳町に入ると
「御岳文芸座」の案内が見えます。
上って行くと、濃淡ベージュの可愛らしい木造校舎がありました。
改装されていますが、木枠の窓や板張りの壁には柔らかな
雰囲気が漂っています。
破風の頂点には、旧校舎の「宮本小学校」を表す装飾が見えます。
玄関の表札は優しく温かい感じです。
閉校後は、「御岳文芸座」という甲府市の施設となっており、
市民の文化・芸術活動の場として利用されています。
学校跡地にある御岳窯には陶芸工房もあります。
甲府市北部を南北に走る県道7号(昇仙峡ライン)は
引き続き県道27号となり甲斐市へと繋がっていきます。
やがて道幅も狭くなり人家もない寂しい道程となります。
幾つか峠を越えて下りる途中で、沿道に分校らしき
建物があります。
切妻造りの平屋の小さな建物が2棟連なっています。
裏に回ってみると、雑草に覆われた空き地がありました。
支柱だけの錆びたブランコ
山深い中にあり、ひっそりとした佇まいの分校です。
現在は、倉庫となっているのでしょうが、
人影もなく長らく手入れもされていない様子です。
往時はどこから生徒達は通っていたのでしょう。
廃校と知らずに通過してしまいそうなくらい目立たない校舎でした。
県道27号を、甲斐市から韮崎に入り南下していく途中、
沿道から近代的な木造校舎が見えました。
つい、立ち寄って撮ったものです。
韮崎昇仙峡線を南下後、広域農道を北上していき、北杜市に入ります。
旧須玉町から県道23号を利用しさらに北上、みずがき湖の手前付近に
校舎があります。
校舎も校庭も思った以上に広く廃れた感じはありません。
桜ですね。
開校日や位置情報を記した記念碑
玄関上に突き出た三角屋根、アーチ窓、円筒形の出窓がありモダンな造りです。
1991年度の在校生徒は29名でした。
みずがき湖の風景
街中よりも一足早い秋の訪れです。
涼風に揺れる薄
よく見ると水瓶は逆さまですから、
水瓶をモチーフにポーズをとってる女神でしょうね。
後日調べたところ、この地では標高があり星座がとても綺麗に見えるそうです。
夜空のオリオンと女神をコラボに写真に収めると
よりロマンチックに仕上がるようです。
みずがき湖から塩川トンネルを抜けて県道23号を
増富ラジウム温泉方面に進みます。
民家にしては大きな土色の建物が眼下に見えます。
学校とコーヒーの案内
矢印の方向に下りて行きます。
門柱にカフェの看板が掛けてあります。
もう一方は、往時の分校跡を表す表札が。
大正末期から昭和初期に分教所として開校したようです。
先ほどの土色の建物は、往時の講堂だったようです。
今は、倉庫みたいですが、屋根の煙突が気になります。
冬はかなり寒そうです。。。
お洒落なエントランス
平屋のこじんまりとした木造校舎です。
フィトンチッドとは森林の香という意味です。
温和なムードが感じられました。
天井から釣り下がった蝿取り紙は愛嬌ですかね。
吠えられ退却。
カフェを楽しむことができそうですね。
当日も数台車が停まっていました。
隠れ家的な廃校カフェとして知られているようです。
地元で焙煎されたコーヒーと周辺で採れた野菜や果物を使った
軽食を賞味できるとのことです。
当日は、残念ながら、ゆっくりと過ごす間もなく後にしました。。
県道610号を北上します。
神戸トンネルの手前で脇道に右折します。
上り詰めたところで、校門にぶつかりました。
校庭の向こうに木造校舎が姿を現しました。
校庭からは、切り立った岩山が見えます。
校舎へ向かう坂道に美術館の立て看板があります。
玄関の表札
山の上の美術館ですが、アトリエを兼ねているのかもしれません。
数々の芸術作品が展示されているそうです。
時間があれば、ゆっくり鑑賞したかったですが。。
こちらは体育館です。
昭和22年(1947年)4月開校とありますので
百周年も迎えることも無く閉校となってしまいました。
学校の沿革と閉校への思いを刻んだ記念碑
増富中学校(2004年閉校)
人家もほとんど無い山頂に広い校庭と
大きな木造校舎があったことが驚きです。
往時は周囲の集落から多くの生徒達が
通っていたのでしょうが、立地条件からみて
かなり遠方から峠を越えて来ていたと思われます。
1991年度の在校生徒は15名でしたので、
閉校になる随分前から少子化が進行した過疎集落であったことが判ります。
校舎が美術館として継続利用されていることは
せめてもの救いです。。。
道幅も狭くなりかけた坂道のカーブを曲がるとき、
学校の案内が目に入り立ち寄ってみました。
昼間でも木々に覆われて暗い道を
校門へと進んで行きます。
敢えて舗装もされていないのは、自然を重んじる教育のためでしょうか。。。
視界が開け、原っぱの向こうに2階建て鉄筋校舎が現れました。
校庭は原っぱ状態で長らく手入れもされておらず、
校舎は廃墟と化しています。
玄関の表札
崩れた遊具
東北小学校(1988年閉校)
閉校後は、「自然学園高等学校」というキリスト教系の
学校として使用されていたのですが、現在は廃校となり放置されているようです。
確かに自然が豊富な環境ですが、交通が不便な辺境に位置することから
存続が困難となったのでしょう。
脇道をさらに上っていくと学校寮の案内がありました。
牧草地の向こうにモダンな建物が見えます。
遠方から編入する生徒達を受け入れるために
立派な寮が完備されていたのですね。
学校が機能していないので、寮も閉鎖されていると思われます。
秘境の別荘のようですね。
学校関係者かどうか分かりませんが、管理されている方が
おられるようです。