和歌山県田辺市、白浜町の廃校休校巡り(2012/10/07,14) | haiko-riderのブログ

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2010年春から現在まで、趣味で廃校休校巡りをしてます。
これまでに訪れた校舎や思い出を記事にしてます。
無分別な廃墟探索とは全く異なりますので、誤解無きように。




田辺市(たなべし)は、近畿地方の南部、和歌山県の中南部に位置する市です。
和歌山県中南部の中心地であり、熊野古道の中辺路ルート、大辺路ルートの分岐点で、

「口熊野」と称されています。
現在の田辺市(新制)は、2005年5月1日に、田辺市(旧制)、龍神村、中辺路町、

大塔村、本宮町の新設合併によって発足しました。
近畿の市の中では面積は最大です。


古くから紀南地方の交通の要衝として栄えてきましたが、この広大な市域の中には、
美しい海、山、川の大自然をはじめ、世界遺産に登録された「熊野古道」や「熊野本宮大社」
に代表される古い歴史や文化、日本三美人の湯で知られる「龍神温泉」や日本最古の湯と

いわれる「湯の峰温泉」等の温泉郷など、人々の心と身体を癒すたくさんの地域資源があります。


白浜町(しらはまちょう)は、和歌山県西牟婁郡にある町です。

2006年(平成18年)3月1日に、日置川町と合併し、改めて白浜町が発足しました。
千葉県などにも白浜という地名が存在することもあり南紀白浜と呼ばれることもあります。
古い時代から温泉地として有名な町です。
和歌山県南西部の海岸沿いに位置し、観光と農業が主たる産業です。


生馬小学校芦山分校1


生馬小学校芦山分校2
生馬(いくま)小学校芦山(あしやま)分校(1972年閉校)

大阪から和歌山方面には、高速なら阪和自動車道を、一般道なら

国道26号~国道42号を利用するのが普通ですが、

いつものように、深夜に出発して後者のルートで南下して行きました。

田辺市を過ぎて白浜町に向う間に、上富田(かみとんだ)町があります。

国道42号から国道311号に入り、途中から県道36号(上富田すさみ線)を

走っていきます。

バス停「大宮」からすぐの芦山川沿いに小さな木造校舎があります。

黒塗りの板張りの平屋校舎ですが、小綺麗に改装されており地域の

公民館として利用されておりました。

温暖な南紀地域ですが、山間部に入ると途端に寒くなります。

木枠の窓から突き出したアルミの煙突が冬場の厳しさを伝えていました。


玉伝小学校1


玉伝小学校2
玉伝(たまで)小学校(2008年閉校)

県道36号を進み、長い隊道(トンネル)を抜けて白浜町に入ります。

旧日置川町であった地域です。

玉伝小学校は、狭い道の木陰にひっそりと佇んでいました。

校舎は思ったよりも近代的な鉄筋2階建て校舎でした。

校庭は狭く、校舎の背は山が迫り、校舎の前は道路越しに崖となっています。

平地の少ない立地条件で、やはり窮屈な感じがします。

1991年度の在校生徒は19名でした。


市鹿野小学校
市鹿野(いちかの)小学校(現役)

県道36号を日置川沿いに引き返し、県道37号に入っていき

最初の学校のある山間集落が市鹿野です。

廃校ではありませんが、全生徒数7名ほどの小規模校です。(2015年度)

ベランダ付の洒落た校舎の花壇には、数多くの鉢植えが並び

明るい雰囲気を醸し出していました。



川添中学校5

川添中学校2

川添中学校3

川添中学校4
川添中学校(2007年閉校)

市鹿野小学校の裏に、大きな校舎が残っています。

このように静かな山間集落にも、かつて中学校があったのですね。

校舎はまだ使用できるくらいの立派な鉄筋校舎ですが、

奥に回ると、老朽化した木造の講堂や錆びたリヤカー(教材備品)が現れ、

年季が感じられました。

1991年度の在校生徒は僅か19名でした。

閉校時には10名ほどであったと思われますが、

生徒数に似合わないほどの巨大な校舎が淋しく佇んでいました。


大瀬小学校1


大瀬小学校3

大瀬小学校2

大瀬小学校4

大瀬小学校(1969年閉校)

白浜町の最深部に位置する秘境が大瀬集落です。

市鹿野集落からさに奥地に入って行きます。

人も車もすれ違うこともない林道を只管走ると、沿道左手に小さな案内があり、

誰も通ることのない石と枯れ枝に覆われた道を下りていきます。

(学校の案内は小さく、日陰では見落としがちです。)

かつて校庭だった空き地は、枯れ草だらけで歩くと足に絡み付くようです。

地面は、落ち葉や枯れ草が幾層も堆積しており、ふわふわとした感じです。

全体的に陽の当らない暗い場所に、木造校舎がひっそりと佇んでいます。

廃墟と化した校舎は、何故か異様に存在感があり魅了されてしまいました。

かなりの年季が入っており、壁の窓枠が外れて傾き、崩落しそうな状態です。

遠方から校舎を見ても、窓が歪んでいるのがはっきりと判ります。

その不整合さが歳月の重みを伝えており、何とも言えない味わい深さがあります。

このような秘境とも言える奥地にかつて小学校があったことに感動を覚えました。

教室内には、骨董品と化したオルガンや備品が置いてありました。

機会があれば、また訪れてみたいのですが、もう姿を消しているかもしれませんね。。。


大瀬集落
大瀬集落の沿道風景

縄文遺跡なる案内板もありましたが、詳細は不明です。


日置川の清流1

日置川の清流2
日置川の渓谷

川の流れは無く止まっているようです。

石灰が含んだような乳白色系のコバルトブルーが

印象的でした。

三川小学校1

三川小学校2
三川小学校(現役)

林道を引き返し、再び市鹿野集落に戻り

日置川に沿って県道37号を北上します。

再び田辺市に入ると川は堰き止められ合川貯水池となっています。

三川大橋を渡り高台にあるのが、三川小学校です。

現役ですが、全校生徒10名の小規模校です。

合川の峡谷1


合川の峡谷3

合川の峡谷2
三川小学校から国道371号を貯水池に沿って進んでいきます。

目の覚めるような渓谷美が沿道から臨む事ができます。


三川第一小学校跡1


三川第一小学校跡3


三川第一小学校跡2




三川第一小学校跡4
三川第一小学校(1976年廃校)

合川ダム沿いのバス停に小学校跡記念碑が見えました。

かつて校舎であった建物は、「おおとう山遊館」という公共の施設となっていました。

建物の脇に三川中学校跡記念碑も立っています。

後で調べたところ、三川中学校を廃校後に改装したようです。

旧大塔村では、三川第一、第二、第三小学校がありましたが、

三川小学校に統合されてしまいました。

合川ダムにより、水没、離村した村人たちもおり、過疎が進んだものと

思われます。


国道371号の標識
国道371号は奥へ進むにつれ道幅も狭くなります。

九川(くがわ)の地名を示す標識はありますが、

現在は、廃屋が数軒見え隠れする廃村集落です。


木守小学校3


木守小学校1


木守小学校2


木守小学校5


木守小学校4

木守小学校6

木守(こもり)小学校(1979年廃校)

国道371号は、ここで分断されており、最果ての場所となっています。

旧大塔村の最奥にある集落が木守です。

ただし、集落は思った以上に開けており、家屋や果樹園等が広く

見渡すことができ、生活感が十分あり、活気さえ感じました。

校舎は、赤い屋根の平屋建て木造校舎です。

庭先に目に付くのが、巨大な石碑です。

「心のふる里」とは郷愁を誘う廃校記念碑ですが、

白い苔が年季を感じます。

裏に回ってみると、遊具等が残っており子供達が

遊んでいた跡が窺えます。

略史からみると、廃校時の児童は僅か6名だったようです。

木守という地名は、かつて木地師がこのあたりに住んでいたことの

名残でしょうか。 興味深い地名です。

現在は、「木守の里シオン」という名の福祉施設として利用されております。


木守集落3


木守集落1

木守集落の風景


三川第二小学校跡3

三川第二小学校跡2

三川第二小学校跡1
三川第二小学校(廃校)

国道371号を引き返す途中の五味集落付近の沿道で

大きな石碑が目に入りました。

近付いてみると「思い出の里」(三川第二小学校跡)と刻んであります。

高台に数軒民家があり、平屋建ての校舎らしき建物も見えましたが、

それが元校舎なのか定かではありません。

事情を聞こうにも、何方もおられない様子でした。


上野小学校6

上野小学校3

上野小学校1

上野小学校2

上野小学校4
上野小学校(1982年廃校)

引き続き、国道371号を引き返し、三川大橋を渡り、日置川に沿って北上します。

上野大橋を過ぎてから、まとまった家屋群の中に校舎らしきものが

目に入りました。

個人所有のものとして利用されているようで、作業道具や廃材が

雑然と放置された状態でした。

雑草や延びた木の枝に隠れた木造校舎は老朽化しておりますが、

往時の面影を残しております。

年季の入った学校跡記念碑は、見過ごしてしまいそうな校舎跡の

片隅に立っていました。


平瀬小学校3


平瀬小学校7


平瀬小学校6


平瀬小学校8



平瀬小学校1

平瀬小学校2

平瀬小学校9

平瀬小学校(1982年閉校)

日置川上流の平瀬地区にある味わい深い木造校舎です。

沿道から高台へと上っていくと、山林に囲まれた中に赤い屋根が見えます。

さらに近付いてみると、玄関には「稲文 径山寺 みそ」とあります。

調べたところ、稲文醸造という味噌を造っている工場でした。

庭先には、小学校跡記念碑と沿革を刻んだ石碑が建っています。

明治10年開校から、長い歴史を歩んで来た小学校です。

現在の校舎は、昭和34年(1959年)に改築されたものです。

裏に回ってみると、校舎と講堂が校庭を囲むようにL字型に

配置されています。

校庭の隅には、2本の巨大なクスノキが校舎を見守るように、

沢山の枝を伸ばして立っていました。


大内川小学校跡4


大内川小学校跡2


大内川小学校跡1


大内川小学校跡3
大内川小学校(1972年廃校)

国道371号をさらに北上し、旧中辺路町に入ります。

砂利を引いた空地の入口に、廃校記念碑が目に入り、立ち止りました。

公民館らしき新しい建物は、平成9年(1997年)に

新築されたもので、「中辺路郷土文化交流館」として利用されています。

沿革を刻んだ石碑には、「今、ここに大切な思い出を石にきざみ、懐かしい

学友と共に建立する。」と締めてあります。

懐かしいと刻んでから、すでに15年経過しておりますが(2015年現在)、

歳月を重ねても、ここに立ち止まり思いを馳せる方がきっとおられることでしょう。





石船(いしぶり)小学校(1969年廃校)

国道371号をさらに進み、地蔵峠を越えて石船地区に入ります。

石船川に沿った集落に、平屋の校舎があります。

現在は、改装され町営住宅となっており、講堂は公民館になっています。


日置川の流れと紅葉3

日置川の流れと紅葉2

日置川の流れと紅葉1
見る場所によって表情を変える日置川の流れ

日置川町は、2006年の統合により名前を消しました。

日置川は、かつて紀伊山地の木材を運搬する手段として利用され、

上流では、炭焼きや林業が盛んでした。

今は、静かにゆっくりと流れているようです。