庭のガクアジサイ。
何年も咲かなかったのに、今年ひさしぶりに―。
1か月半ほど前、鹿沼土をまいたのがよかったのか…?
学生の頃から僕が敬愛してやまなかった教育学者の城丸章夫(しろまるふみお)先生が、5月27日に亡くなった。
享年93歳。
27日は、僕がちょうどジュネーブで子どもの権利委員会を傍聴しているさなかだ。先生は、権利主体としての子どもの生活と教育実践とは何かを理論的に追究してこられた人だったから、何かの因縁かもしれない。
成田に着いて、同業者先輩のMさんからのケータイ着信履歴があった。「何だろう?」とかけてみたがつながらず、それが訃報であったことを帰宅後のPCメールで知った。Mさんとも電話で話した。
僕がこの道の“羅針盤”としてきたのは、大先輩の城丸さんと先輩のMさんに他ならない。
城丸さんの講義(講演)をじかに聴いたのは、僕が上京した1978年頃ではなかったか。
前年の著書『地域子ども会』は、その後、傍線を引きながら何度も読んだので、今では表紙が取れ、どのページも赤茶けてしまっている。
彼の論文は生活・経験の味と含蓄、深い洞察と説得的な主張があって、いつも1行1行にいとおしさをおぼえるのだった。文章の分かりやすさは、書いたあと必ず奥様に読んでもらうからだと聞いたことがある。
あれは1980年頃だったか、母親大会の分科会でご一緒したことがある。
お茶の水の古い明治大学の教室で先生は助言者、僕は一参加者だった。まわりはお母さん方ばかり。
ある一人のお母さんが、何のことだったかは忘れたが、先生の言葉に異を唱えた場面があり、そのとき先生は「もっと反抗しなさい」というようなことをおっしゃった。
そばにいた僕にとっては、ちょっと「エッ?!そこまで言わなくても…」と思うような言い方で、びっくりしたのを覚えている。
“対話は異論・反論あってこそ。大歓迎”という気持ちを表現されたものだろうが、当のお母さんにそのことを理解してもらえたかは怪しい。今となってはなつかしい思い出だ。
先生は戦争に従軍して、足を悪くした。
そのときの杖をつく姿も忘れがたい。
だいぶたって、そう1998年に僕が処女出版をしたあとの記念の講演会で、城丸さんから身に余る賛辞(メッセージ)をいただき、「無名の僕を見ててくださったのか…」と恐縮したことも―。
何年か前、先生のほうから「年をとったのでもう出しませんから」と“宣言”され、年賀状も途絶えていた。
昨年、権利条約第31条(休息・遊び・文化)のグループで、「城丸先生に会いに行こう。もう会えなくなるかも」と話したことがあったが、実現せず、ほんとうに会えなくなってしまった。
臨終の場におられたある方の話では、先生の最後の言葉は「面白かった」だったそうだ。
何が人生で面白かったのだろう?
先生の言いそうなことだが、とても気になる。教え子である東京Oさんに訊いてみよう。
もうお会いできないと思うと淋しさを禁じえないが、たくさん書き残しておられる。
そこから学べるのは幸いだ。