統一地方選挙の投票日も近い。
忖度やら統計不正やらがはびこり、
さらにその実態を隠すものを、かばうに至って、
行政や政治に対する信頼は地に落ちているはずだが。
それを非難するものは少なく、
むしろ、正当な批判が非難されるようなネットの論調に
つくづく、この国の人々の「劣化」を思う。
何が一番ショックかといえば、投票率の低さ(共に66%弱)であった。
得手勝手な計算ではあるが、
有権者の1/3、13,000人の棄権票のうちの、7%、500票が私にあれば、
市会議員選挙では、当選できただろうし、
市長選挙では100万円の供託金を取り戻すことができて、さらにポスターの印刷費などの経費も、公に出してもらえた。
みなさん諸々(もろもろ)言い訳もあるかもしれないが、
選挙に行かないのは、現代ニッポンにはびこる「無責任」の風潮のあらわれだと思っている。
そこは個人的に、怨み骨髄なのである。
そして、
政治や行政に対して無責任な有権者が、
国民に対して無責任な政治家や行政を、
野放しにしている、と私は見ている。
◇ ◇ ◇
昨日は朝から、ゴーンが再逮捕された。
背景には企業内部にとどまらない国際的な権力闘争があると思っているが、
日産に、ゴーンへの経営者としての「信頼」はすでになかろう。
あとは、実力のぶつかりあう闘争が残るのみだ。
セブンイレブンも、24時間営業をめぐる問題で、トップが交代した。
フランチャザー(本部)とフランチャイジー(店舗オーナー)が、
互いを「信頼」できないから、規則でがんじがらめにする。
罰則で脅す。
「信頼」は、英語では trust と訳すのが一番しっくりくるが、
trust には、信用に対する「責任」という意味もある。
先に書いた、政治や行政と国民と、双方の「無責任」は、
政治や行政という仕組み、あるいは民主主義に対する、「信頼の喪失」と同じ意味かと思う。
社会が機能するのは、
正当な要求があればそれに応えるであろう、とか、
無法者には罰が加えられるであろう、とかいう、「信頼」が根底にあるからだ。
よく言われる日本の「民度」の高さ、安心安全は、
一人一人の、社会に対する「信頼」の「総計」だといっていいだろう。
◇ ◇ ◇
昨夜は、
先ごろ亡くなった萩原健一、ショーケンの番組を見た。
逮捕歴も離婚歴も一度や二度ではないそうだ。
こういう人を「無頼」といったりするが、
それは、「人に頼ることがない」という意味で、
人から頼られない、信頼がない、ということではなかろう。
私も無頼のような者であるが、おかげさまで、
数限りない、信頼に足る人たち、
私を信頼してくれているであろう人たちに、囲まれて生きている。
ただ、
会社や行政、他人に頼るテクニックばかりがはびこり、
他を信頼することを忘れた、多くの人々の群れを、
比較的脳天気な私も、
今はほぼほぼ、信頼することなどできないでいる。
信頼なきニッポンは、永遠に、
(あるいは、もうちょっと悲劇的な事件でも起こらない限り)
衰退していくしかなかろう、と思っているのである。
追記:2020/1/6、「テーマ」(書庫)を、「日本病対策」に移した。