世の中を なに嘆かまし 山桜

花見るほどの 心なりせば

「紫式部集」 (紫式部) より

 

 

昨日15日、土曜日、朝からお昼過ぎにかけては、

源氏物語を読む会(紫友会)の、朗読会だった。

谷口美都江先生は、東京ご出身。

柳瀬地区の公民館長もされながら、

高岡市内の高校で、古文を教えていらっしゃる。
亡くなられたご主人が、富山法科大学の教授だったということで、

お住まいは、柳瀬地区の古民家をリフォームしたものだ。

 

谷口先生が、

紫式部を主人公にした小説を上梓されるほどの
源氏物語の研究者であることを聞きつけて、

女性数人で、源氏物語を読む会を始めて、15年ほどにもなるようだ。

私が参加させていただいてからでも、7年になる。

 

毎月一回、源氏物語を読み進め、
全体の三分の二にあたるところまで、きている。
先日、紫の上の亡くなる「御法(みのり)」の巻を読み終えた。

 

毎月の勉強会とは別に、年に4回、
分担してほぼ一巻(長い巻では部分のみ)を音読し、

そのまま食事会をする「朗読会」をしていて、
今年の「観桜朗読会」が、昨日だったのだ。

 

 ◇ ◇ ◇
 

今回の参加者は、
谷口先生を入れて女性8名、私を入れて男性2名。


図書館の和室で、その、「御法巻」を読み終えて、

午前11時頃、男性2人の運転する車に分乗して、

お花見と昼食のため、城端へ向かった。

 

時々雨の交じる天気で、

福野の街なかでも、散居景観の中にも、遠く、
景色を煙らせるような満開、散り際の桜の巨木を見る。

最初の目的地は、桜ヶ池。
それぞれの思い出を語り、今の周辺の様子に驚きながら、
車で、池を一周する。


池の周囲の桜よりも、法面の山菜を気にする方がいて、

車内は笑いっぱなしである。


城端の街へ向かう途中にある、

向野の一本桜も見事であった。

私も、これだけいい時期に見ることは、なかったように思う。

 

携帯のない私は、写真を撮ることもなく、

運転と、桜の美しさとに、集中することができた。

 

 ◇ ◇ ◇

 

予約していた城端の御食事処では、

短歌の上(かみ)の句を、くじで引いて、

同じ歌の、下(しも)の句の、置かれた席につく。
その席で、お昼をいただこうという趣向である。
 

庭の見える畳敷きの座敷に、低めのイス・テーブルが並んでいる、というしつらいで、
2千円足らずの和食ではあったが、充実したおいしいお昼に、話もはずんだ。


席を決めるための短歌は、

谷口先生が選ばれた、桜に関する古今の名歌で、

私が引いたのは、冒頭の、紫式部の歌である。
 

 

  世の中を なに嘆かまし 山桜

  花見るほどの 心なりせば

 


世の中を、どうして嘆くことがあろうか、

人の心も知らず、山桜は咲く

その花を見るほどの、私の心であるのだから (嘆くほどのことはない)


というような、訳であろうか。
 

谷口先生から、「反語」というご指摘をいただいて、はっとする。

 

嘆かねばならないか、いや嘆かずとも、というのが

いわゆる文法的な「反語」なのであろうが、


桜を見て、わざわざ、
嘆くほどのことはない、と、歌わねばならぬほど、

実は作者の嘆きは、底知れず、深いのである。

 

 ◇ ◇ ◇

 

言いたいことを、自由に言えるはずの現代、

やりたいことは、自分ひとりでもやり遂げられるはず、
といいつつ、

 

私たちは、周囲に気を配り、他人(ひと)にすがって、

失敗だらけの日々を、助けてもらいながら

我慢もし、我慢もさせ、やっとのことで過ごしている。

 

何を嘆くことがあろうか、というのも真実なら、

やはり、こんな日々を嘆きたくなるのも、真実なのである。


たかが選挙、とうそぶきながら、
私は今夜、私と世の中の「現実」に直面する。

 

花は咲くのか、咲く前に散るのか、

どちらにしろ、

 

なに嘆かまし、

と、

私はいうだろう。