昨日井波で、ちょっと街をぶらついたら、明日20日からの「まちなみアート・寺の町いなみ」のポスターが目についた。

井波

のぼり旗など準備されている方もいて、まちじゅうで準備が進んでいる。

個人的に、瑞泉会館でおこなわれる「ほのぼのマルシェ」と、これは「井波彫刻まつり」のほうになるらしいが、イサム・ノグチの母親の映画「レオニー」はぜひ見てきたいと思っている。
他にも、「坊主バー」「欄間ウォーク」など、魅力的な企画がいっぱいだ。

瑞泉寺と木彫関係者と、取り巻く他業種も住民も、さらに近隣の人たちも一体になって、「できるところで参加する」とてもいいイベントになっているのだろう。

惜しむらくは、ネーミングだ。「彫刻まつり」も「まちなみアート」も、中身を解説しているだけの言葉で、もう少しインパクト、というか、心動くような統一した名前にすれば、と思う。

いや、中身は素晴らしい。
砺波の「やぐら大祭」にも、こういう広がりが生まれればいいのに。

もともと南砺市は、砺波市よりずっと観光のポテンシャルが高くて、五箇山・井波・城端の3点セットなど、うまく売りだしてもらえれば、庄川温泉郷にもおこぼれがいただけると思っている。

7月末の、井波の太子伝と、城端の虫干し法会など、同じ時期に微妙な距離で、同じような主旨のイベントをぶつけてしまっているのはとてももったいないのではないか。

さて。

昨日は、facebookで、「五箇山で音楽フェスを開きたい」という人の投稿があって、
そのスレッドにたくさんの応援の声が集まって、とても盛り上がった。

大きなイベントは金もかかるし、出演者やスタッフの管理、不測の事態を起こす客の動きなど、心配しだすときりのない、さまざまなリスクがある。
井波のアートのように、あちこちでちらばってやればいい、というものとはわけが違う。

それでも、うまくいっている時の会場の一体感や心の高揚は、何ものにも代えがたいところがあって、多くの若者はそれを「お客さん」として味わったことがある。
自らやってみたいと、思いつくのは自然だが、声に出すには勇気がいる。

イベントというのは、ある人にとっては「目的」だが、ある人にとっては「手段」で、その意識は入り乱れている。だからこそ、多くの人を巻き込むことができる。
作り上げる悩みと喜びが生まれる。そこがイベントであるところのミソなのだ。

自らの意志でやってみたいという人がいれば、お節介といわれようと、いろいろ言ってしまう。

成功か失敗かの尺度もまたそれぞれではあるけれど、
本人が失敗だったと思ってしまうような結果にだけは、絶対にしてほしくないのだ。