この小説はフィクションです、実在とは関係ありません。

 

 

「大 君」  10

 

「ワシは無学なもんで、良暹(りょうせん)法師いう人をよう知りませんのや」

 龍蔵が控えめな目つきで訴えた。

「あんた素直なええ人やな、大概の者は知った被りをするもんや。

知識は得るもの努力の結晶や。法師が亡くなった後、

歌壇の第一人者で『金葉和歌集』を編んだ源俊頼(としより)が、

大原に出かけた折、

良暹法師の旧房前を通り過ぎる際、下馬の礼をとったと言われてる。

その後も急房を訪れた西行法師も、

感極まって『大原やまだ炭窪もならはずといひけむ人を今あらせばや』

と、山家集にある。良暹法師がいま生きてここに住んでいたら……、

と、妻戸に書き付けてるんや。また西行は、冬の山住みの孤独にさいなまれて、

『さびしさに堪へたる人のまたもあれな庵並べむ冬の山里』の歌を残したんや」

 佐久衛門が酒を旨そうに飲んだ。

「ええ勉強させてもらいましたわ。一回聞いたぐらいじゃ、頭には入りませんけどな」

  龍蔵の言葉に、にこりと笑った。

「それでもええんや、一回が二回、二回が三回と回を重ねるごとに知識が身につくんや。

ワシは去年、西国巡礼をしてやろうと出かけたんやが、

疲れ果てて最初に意気込んだ思いは吹っ飛んだんや。

そんなとき力を与えてくれたんが、

目的に向かって、もう一歩、もう一歩と歩き続けたら、

目的地は向こうから近づいてくると気づいたんや。

そのときワシは、これが巡礼の意味かもしれんと感じたんや。

ワシはこの歳になって気づかせてくれたことに感謝して手を合わせた。

そしたらまたも気づいたことが有ったんや。

ワシは頑固なとこが有って、亡くなった妻を泣かせたもんやった。

そんなとき合掌してれば、泣かさずに済んだと思うたんや。

夫婦喧嘩をする前に、目をつぶって合掌してから始めたら、

夫婦喧嘩が愛の合掌に変わるんやないかと思うたんや」

「ええ話ですな」

 感激した龍蔵が酒を注いだ。

-つづくー

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