日本の、世界の、食の常識を超えていく。
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今思うこと。

コロナ禍が収束しない。「来年も桜は咲きますから。」と自粛した花見は、今年もできなかった。「短期集中で」行う、とされたゴールデンウイークの緊急事態宣言は、未だに続いていて、再々延長までなされた。日本がコロナウィルスの影響を受けてから早や1年以上。諸外国と比した時に、桁違いに少ない感染者数であるにも関わらず、医療が崩壊寸前なのだそうだ。であるなら、コロナ病床数を増やすことに注力すべきなのではと思うが、ほぼ増えていない。

このコロナ禍が、日本人がどれほど非常時に弱いかを浮き彫りにした。それがある種、国民性として存在しているのではないかと感じたので、そのあたりを今回生じた問題点を元に考えてみたいと思う。

 

まずは「戦略の欠如」だ。戦略を立てる上で重要なのは「何をやるか」ではなく「何をやらないか」を決める事だ、と楠木健氏はその著書「ストーリーとしての競争戦略」で語っている。戦略は、何を立てて何を立てないのか?その犠牲を強いる部分を決めるからこそ「戦略」になり得るのだ、と教えてくれている。しかし日本の対応はどうだろう。Go Toトラベル、Go Toイートの施策(これも、必要としている業界に直接お金は流れず、癒着を思わせる企業、関連団体にお金が流れていることに疑問を感じているが、ここでは触れないこととする)と感染対策を同居させる発想には驚いたが、挙句の果てに、緊急事態とオリンピックの開催やその準備を同居させるとはどういう了見なのだろうか。これは、アクセルとブレーキを同時に踏み込むことと同義である。感染対策という車は全く前に進まないのに、ガソリン(税金)は垂れ流しなのだから始末に負えない。

 

次に、やる事成す事「Too Little Too Late」であるということも印象的だ。アメリカのコロナ対策は、極めて早く、資金援助も十分なものだった。PPP(Paycheck Protection Program)によって、融資という形で銀行から直接、速やかに企業へ資金を供給。人件費や家賃などに費やした分は返済の必要のない事実上の補助金で、これをもってフードサービス業界を救済した。その補助金の支給額は当然企業規模別である。日本の補助金は1年近く規模別ではなく、企業ごと一定額であったため、個店には過分な額であった一方、チェーン企業には赤字を補填するには全くもって不足する額であった。結果、規模の大きな企業であればあるほど大きな赤字を垂れ流し続けた。最終的には日本の補助金も規模別となったが、時既に遅し、複数の大手外食企業が大規模増資を余儀なくされた。現在、アメリカはワクチン接種も急速に進み、経済も平静を取り戻しつつある。一方の日本、ワクチン接種率は先進国最低水準である。そもそもコロナ発生後の中国からの入国制限も後手に回り、昨今のインド型変異株対策のためのインドからの入国制限も遅れた。少なくとも諸外国に先立って入国制限を行うという事は出来なかった。この5月末に出された、アメリカの速やかな日本への渡航中止勧告とは対照的である。

 

そして「組織の縦割り、連携不足問題」。飲食店への時短営業協力金の国と都のちぐはぐな動きは、本当にストレスを感じた。国は大企業には出す、都は大企業には出さない(後に撤回)、国はデパートには休業要請をしない、都は休業要請をする、などなど、多くの企業が、ぎりぎりまで対応の判断がつかない状況となった。また、各種補助金の申請先が、都道府県、市区町村、厚生労働省とそれぞれあり、当然書式も違い、補助金対象となるならないも微妙に違い、申請にかなりの手間と時間が求められた。(補助金の甚だしい支給遅れはToo Little Too Late問題と言えるだろう。)PPPで、手間、スピード、規模、全てを両立させたアメリカの補助金制度との対比が、非常に印象的である。

 

最後に、悪しき「平等主義」である。先日ニュースで、日本のとある島のワクチン接種が完了した、ということが報じられていた。現在ワクチンは、感染者数などに依らず、全国の都道府県に満遍なく配布されている。緊急事態宣言下において、人の往来を抑制しているのにも関わらず、離島のワクチン接種を早期に完了させることに、どれほどの意味があるのであろう。大都市中心に感染が拡大し、大都市中心に医療がひっ迫しているのなら、大都市中心に接種を進めることが重要であるし、それこそが「平等」であると思う。出走者全員で手をつないでゴールさせる運動会の徒競走を想起させる、本来の民主主義的平等と全く相いれない、異常な「平等主義」である。

 

このように列挙すると、日本人の特徴が良くわかるのではないだろうか?非常事態においても戦略無しで物事を行い、やる事成すこと小さ過ぎて遅過ぎる。縦割り組織の中で融通が利かず、異常なまでに「平等」にこだわる極めて残念で頼りにならない人、それが日本人だ。だからこそ戦争には負け、バブル崩壊では失われた20年となり、福島の原発も「Under Control」に置くことが出来ず、いまだコロナも収束しないのだろう。日本人は「国民性」として、異常なほどに危機対応が下手なのだ。

 

太平洋戦争時「兵は一流、指揮官は三流」と言われた日本。現代のリーダーも「三流」であるからこそ、先進国最低のコロナ対策となったのであろうか?私はそうは思わない。我々は一部の為政者やリーダーだけに責任を押し付けるべきではない。為政者の意思決定は、確かに「三流」であったかもしれない。しかし「一流」の「兵」(日本国民)が意思決定していても、しょせんは同じ穴の狢、似たような意思決定となっていた事は想像に難くない。諸外国は今回の日本の感染対策を、極めて典型的な日本人らしい危機対応、と評するだろう。このコロナ禍を「喉元過ぎれば」にしてはいけない。今後、隣国からミサイルが飛んでくるような事態が発生したら、この国は本当にどうなってしまうのであろうか?冒険投資家ジム・ロジャース氏は、氏が日本の若者であったら「日本を飛び出すか、AK-47を手に入れる」と言ったが、これはもう笑い話では済まされない。いまだコロナ禍ではあるが、いやコロナ禍の真っ只中であるからこそ、危機対応においても日本が「一流」であるためにどうあるべきか、議論を深める必要がある。

「罵声」の代償

雨の降る金曜日、私はバスに乗っていた。

いくつかのバス停を過ぎ、ある停留所でバスは止まった。数十秒停車し、乗り込む乗客がいないことを運転手が確認をし、扉を閉め、発車しようとした、その時だった。

「開けてください!」

女性の声が聞こえてきた。バスが発車しようとした瞬間に、バス停にたどり着いた女性がいるようだった。大きな声だったが運転手は気がつかない。いや、気がつかないふりをしているのだろう。そして無情にもバスは動き出す。するとその女性は、雨の中、あろうことかバスに並走してきた。

「開けてください!開けてください!」

そう叫びながら彼女はバスのすぐ隣を走る。極めて危険な状態だったが、運転手はなおも気がつかないふりをしてバスを加速させた。やがて女性の声は聞こえなくなった。女性にはよほど先を急ぐ予定でもあったのだろうか。私は、その女性を哀れに思うとともに、おそらくは定時運行と事故回避のために、停留所以外ではいかなる場所においても乗客を乗せてはならない、という内規に従っているであろう運転手への同情を感じた。そんなことを考えていると、バスは次の停留所に到着した。扉が開き、私は息を飲んだ。そこに先ほどの女性がびしょ濡れで立っていたからだ。

「何で開けなかったの!!」

女性の罵声が車内に響いた。雨の中、彼女は次の停留所まで駆けてきていたのだ。それもヒールを履きながら。彼女の表情からは抑えきれない怒りの感情が見て取れる。彼女はひとしきり運転手を罵倒し、そして席に着いた。しかし、それでも怒りは収まらなかったのだろう、再度運転手のそばに近寄っていき、運転手の名前を尋ねると、

「然るべきところにクレームを入れるから!」

と、また車内にこだまするかのような大きな声で運転手を罵倒した。おそらく、彼女はそのままの勢いで「然るべきところ」にクレームを入れ、形のみの謝罪を受け、そして溜飲を下げたのであろう。

 

 

ここ数年、ネットでもテレビでも、度を越えた「罵声」や「罵倒」「非難」、そしてそれを受けた「謝罪」を多く見る。私は、何かの集団が一時期ラップにのせて歌っていた「民主主義って何だ!」というフレーズが頭に浮かぶ。そのグループが何の意味で言っていたのか知らないし、知りたくもないが、「民主主義」、「言論の自由」というものに、大きな誤解のある人がいるのではないか、と思う。なるほど、確かに各個人が自由に意見を持ち、自由に意見できることは極めて大切なことだ。しかし、他者を「罵倒」し、「罵声」を浴びせる権利までが認められているわけではない。さらには「謝罪」させ、それを見て「溜飲を下げる」ことができること、それが「民主主義」である、というわけでは当然無い。さらに私はここにおいて、現代民主主義は大きな「代償」を払わされているのではないか、と考えている。

 

「罵声」をぶつけられるべくしてぶつけられた人間や組織は、当然以って瞑すべし、深く後悔し、悔い改めるべきである。しかし、世の中「絶対悪」と決めつけられることばかりではない。むしろそう断ずることができることの方が少ないだろう。であるにもかかわらず、人を「絶対悪」と決めつけ、「罵声」をあげて断罪する人がいるのであれば、私はその人こそ「絶対悪」に近い存在ではないか、と思うがその罪においてはここでは触れないこととする。私が注目したいのは、その根拠の不明確な「罵声」を浴びせられた人や組織の方である。その人や組織が大人であればあるほど、その「罵声」を我慢するだろう。時には謝罪もするであろう。それが形だけのものであっても。しかしその「罵声」を受けたストレスは、そう簡単に雲散霧消する類のものではないはずだ。そんなストレスが積もりに積もった時、その怒りは、ぶつけやすい方に向かい、新たな「罵声」や「罵倒」になりはしないか?そう、「不幸の連鎖」とも呼べるような状況になりはしないか?ということである。

 

このSNSの時代において、この不幸の連鎖は、我々の想像を超えて大きなものになっているのかもしれない。「罵声」や「罵倒」の類の言説が躍るSNS。世界にその共感者を求めれば、それがいかに暴論であろうが、賛同する人間はいるだろう。そしてその結果「罵声」や「罵倒」は、一つの集団の「意見」となる。そして、その「罵声」や「罵倒」を浴びせられた人や組織も、ある種自己防衛的に「意見」を形成し、もう一方を「罵倒」し始める。このように、国家レベルで、世界レベルで、「罵声」による「不幸の連鎖」が起こっているのではないだろうか?これこそが現代の世界情勢である、というのは言い過ぎだろうか。昨今の、自国中心主義の風や各国のナショナリズムの高まりを見聞きするにつけ、その関連性を想起してしまう。

 

悲惨な戦争を乗り越え、帝国主義やナショナリズムを乗り越え、多くの国々は民主主義を勝ち取ったとされる。そして言論の自由を勝ち得たとされる。しかし、「言論の自由」を勝ち得たからこそ生まれるナショナリズムがあるというなら、こんな皮肉なことは無い。

今こそ我々ひとりひとりに、責任ある「発言」が求められている。

最近、腑に落ちたこと。

「我が体を全て敵に任せ、敵の好むところに来たるに従い勝つを真正の勝ちという。」

 

幕末の三舟と謳われた剣客、山岡鉄舟は、その剣法邪正の弁において、このように書いている。100戦して100勝するためにはこのような戦い方が求められると言う。これを「箱の中の品物を取り出す時に、その箱の蓋を開け、中身をあらため、その品物が何であるかを知るようなものだ。」とも表現している。鉄舟は禅の心得もあるため、まさに禅問答のようだが、「戦っていれば相手が勝ちを急ぐ場面が必ず現れる。そこに乗じて勝つのを真正の勝ちという」ということなのだが、ここにおいて最も印象的なのが、「我が体を全て敵に任せ」という部分である。

 

「人を切る」という、極めて能動的な行為、それが剣術であるはずだ。そこにおいて、受動性「受け身」のイメージは存在しない。しかし、鉄舟は、剣の勝負において、ある種の「受け身」が求められると言うのである。非常に逆説的であるが、極めて重要な指摘だと思う。鉄舟の換言を元にして表現すれば、「箱の中の品物を取り出す」(勝負に勝つ)ということは、箱を叩き壊す事ではない。確かに叩き壊せる箱であれば、叩き壊して中の品物を取り出すことができる(勝負に勝てる)かもしれない。しかし叩き壊せない箱であれば中の品物を取り出すことはできない(勝負に負けてしまう)。このような戦い方をしていては、100戦100勝はできない。箱の中の品物を取り出すには、箱を開けなくてはならない。その「開ける」という、ある種受動性のある行為が必用なのだ、と言っているのだ。これでもまだ禅問答の域を出ないだろうか?(笑) さらに言えば、剣を好き放題に、自分の思うままに打ち込んでいては、100戦100勝はできない。敵を切るためには、敵を観察し、見極め、適応すべきである。その意味で、能動の中にも受動性がなければならない。そう言っているのだと思う。鉄舟は、「この論理は人間として世間を生きていく上で全てに通じている」と言っているが全く同感である。

 

 

ビジネスの世界で、今まで様々な人間を見てきた。極めて優秀で結果を残す人間。さほど優秀でもないのに輝かしい実績を残す人間などなど。しかし私が最も興味深かったのは、極めて優秀であるにも関わらず、組織で結果を残せない人間だ。

 

ピーター・ドラッカーは、その著作『経営者の条件』で言う。上司は部下の強みを生かすことを考えなくてはならない。そしてそれと同様に、部下も上司の長所を生かすことを考えなくてはならない、と。優秀であるのに結果を残せない人間は、まさにここにおいて欠ける部分があるからこそ、目覚ましい結果を残すことができないのではないだろうか、と私は考えている。一人一人のビジネスパーソンは当然、何をしたいか?どうあるべきか?どうなりたいか?そんな個人の目標や欲がある。もちろんあって当然である。しかし、だからこそ、上司は部下の長所をよく調べ、どう生かすかを考えるべきであり、また、部下は上司を良く観察し、その長所が生かされるように貢献すべきなのである。この、他者を考えるという、ある種の受動的行為、「受け身」の行為を行なわない者、それが優秀であるのに組織で結果を残せない人間であるのではないか、と思う。

思い返してみると、ピーター・ドラッカーの多くの教えは、様々な立場における、ある種の「受け身」の大切さを教えてくれているのではないか、という気がしている。「なされるべきをなす」(The First question to ask is what needs to be done.)という教えなどはまさにそうだろう。

 

山岡鉄舟の「剣禅話」では、鉄舟がライバルに勝利するために修業を重ね、禅僧から授けられた公案に懊悩しつつも、最後の最後で100戦100勝の奥義にたどり着く様が語られている。このように、目標を徹底して追及する過程で、「受け身」というエッセンスにたどり着けるのかもしれないが、ある種の矛盾をはらむアプローチのため、気付けない人間は一生気付けないのかもしれない。何か最近、自分の中で腑に落ちたため、ここに書き留めておこうと思う。

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