豊臣秀長が傑出した人物であったことを示す根拠 | 福永英樹ブログ

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 明日で最終回を迎えるNHK大河ドラマ軍師官兵衛にしても、映画清州会議にしても、秀吉の弟で彼の補佐役だったとされる豊臣秀長の人物設定はほとんど存在感がなく、一言でいえばいてもいなくてもよい存在でしょうか(苦笑)

 これらに限らず、中には秀長を偉人だというのは、お前(福永)の妄想なんじゃないかと指摘される方もいます。しかし、私が秀長秀吉に劣らない傑出した歴史上の人物だとするのには、それなりの客観的根拠があるのです。特に政治能力については、明らかに秀吉より能力が高かったといえるでしょう。以下にその根拠を示していくことにします。



■藤堂高虎が心服していたこと

 徳川家康の人材活用とは、信長のような抜擢主義でもなく、かといって秀吉のような能力主義に徹していたわけでもなく、どちらかと言えば代々仕えてきた譜代の家臣を中核に置いた組織全体の力に重きを置いた保守的なものでした。ところが豊臣恩顧の外様大名にもかかわらず、家康が最も信頼し最大級の評価をしていた武将がいました。かつての秀長の家老であった藤堂高虎です。高虎の能力は、合戦における戦略戦術のみならず、外交・周旋・築城・行政・人脈構築など多岐にわたって抜きん出ていました。さらに人間的にも高い志を保持していたからこそ、あそこまで家康に信頼されていたのです。

 そんな高虎も、21歳までは次々と主君を替えており、ぱっとしない日々が続いていたのです。そんな彼を臣従させて一流の武将に育て上げたのが秀長です。高虎が主君を次々に替えたのは、自身の高い能力に見合った評価が出来る高等な頭脳の主君がなかなか見つからなかったであり、秀長にはそれができる鋭い眼力があったということなのです。

 秀長が病死して徳川の世になってからも、高虎秀長の供養に最期まで力を尽くしています。


■信長から但馬国の国主に直接任命されたこと

 天正8年(1580年)織田信長は、別所長治に寝返っていた但馬国の山名氏を降伏させた羽柴秀長に対し、但馬一国13万石を与えました。これは秀長の兄である秀吉に与えて、秀吉秀長に分与したのではなく、信長からの直命により秀長が受領した領国でした。またこの頃秀長は、信長より従五位下 美濃守の官位も与えられています。これは鋭い人物眼を保持していた信長が、いかに秀長の能力と実績を評価していたかを示す出来事でした。


■太閤検地は秀長が考案・試作したもの

 天正16年(1588年)、いわゆる太閤検地が全国的な規模で実施されましたが、実はこの3年も前の天正13年8月、秀長によって紀伊国(秀長領国)において既に実施されていたのです。(紀伊続風土記)

 秀長、信長の政策を踏襲しつつも、農民出身者らしい才覚を発揮して検地の基準・方法を考案・実施して、安定的な年貢徴収による豊臣家の財政基盤を確固たるものに築きあげたのです。


■四国・九州平定の総大将は秀長

 天正13年(1585年)の四国征伐は、秀吉が珍しく病気だったため秀長が総大将を務めました。この頃はまだ家康が豊臣家に臣従していない不安定な時期でしたので、僅か1か月で秀長が平定に成功したことは、秀吉にとって大いに安堵できることでした。これには当然、家康も大いにプレッシャーに感じたことでしょう。

 天正15年(1587年)の九州征伐は、肥後方面から秀吉軍が、日向方面から秀長軍と、豊臣軍は二手に分かれての行軍でした。結果的に島津軍が日向に集中したため、最終決戦は秀長が対することになり、見事に根白坂の合戦で大勝利しています。ここで注目すべきは、秀長の説得により四国の長宗我部氏も九州の島津氏も、降伏に際し所領の一部を安堵されていることです。


■優れた行政手腕

 自身の所領であった大和国において秀長は、寺社に武装解除させ、商人と隔離し宗教活動だけに専念させるという、明確な意図をもって厳しい宗教政策を実施しました。25000石もの年貢を配当していた奈良興福寺の過剰申告を暴き、その上乗せ分を厳しく削減させたのも秀長の功績であり、あの信長以上に徹底していたと言えるでしょう。

 秀長は商工業保護の政策として、各種の同業者を業種ごとに郡山城下のそれぞれの町に集め、営業上の独占権を認め町々にそれぞれの特許状を与えて保護しました。この特許状を彼らに朱印箱に納めさせ封印をさせて、一カ月交代で箱本として郡山の城下町全体の自治を持ちまわりさせたのです。箱本になった町の年寄は、一ヶ月間全責任を持って郡山すべての町の世話をしました。

 

■突出した経済・財政手腕

 秀長病死の直後、彼により既得権をはく奪されていた奈良興福寺の高僧多聞院英俊は、日記で次のよう秀長を非難しています。

「郡山城の備蓄金を確認したところ、金子56000枚、銀子は4メートル四方の部屋一杯に積み上げられて枚数も判らないほどだったが、死んでしまっては役立たないから、さぞ命が惜しかっただろう。浅ましいことだ」

 奈良の史書では、奈良の金融商人が秀長を後ろ盾として法外な高利で無理貸しを行ったと記録されています。既得権をはく奪された側の記録のため、真実とはおよそかけ離れたものであると思われますが、少なくとも秀長が、何らかの目的のために商業資本への積極的投資により金銭を運用しようとしたしたことは間違えのない事実です。

 秀吉・秀長信長の下で台頭した理由の一つに、他の織田家大名たちと比較して、抜群の経済力や財務力があったことがあげられます。鳥取城攻略の際には予め城内の米を時価の数倍の値段で買占め効果的な兵糧攻めを行い、高松城の水攻めには莫大な土俵費用と人件費を要しています。これ以外にも秀吉・秀長の戦争は、いかに大量の兵糧や弾薬を調達しそれを適所に迅速に配分するかにかかっており、高い経済力は不可欠なものでした。 これらはすべて、秀長と堺商人でもあった茶人千利休の協力関係による功績だったのです。 深い価値観を共有していた秀長利休は、泰平の世の到来にあたり、支配階級の指向を土地(年貢)獲得から、法に則った競争による金銭獲得(商い)に方向転換させようとしました。理由は、限られた国内の土地をいつまでも争っていては、恒久的な平和の維持ができないからです。 

 ただ、そうはいっても、実質的に商業活動を行うのは商人(商業資本)であり、支配層(関白・諸大名)が彼らから充分な課税をするということは、簿記・棚卸・予算・決算などという技術や、税務署という組織もなかった当時では不可能なことです。何しろ、国が商業資本の売上や利益を正確に把握し組織的に課税していくという体制が整ったのは、明治維新後です。

 二人は、困難な商人からの課税の代わりに金融投資による金銭運用という方法で、支配階級の恒常的な金銭確保を実現しようとしたものと思われます。


■朝鮮出兵の失敗を予期していた秀長

 秀吉の命による朝鮮出兵が決定され、名護屋出陣をひかえた前野長康は、細川藤秀長が極力出兵を押しとどめていたことについて触れています。

美濃守(秀長)存命の頃は、関白殿下に度々高麗(朝鮮)退治のため、大軍を相催し、渡海の事異見申さりける。九国、関東併せ国中相治り候、この上は御政道全くあるべきこそ肝要なり。徒に外国と争端を発し人馬兵糧の費えは暴挙なり、損失のみ多く得るところ無し。不戦和議を講じ交易をひろむる事富国の第一、軍忠功をもって禄を求むる者あらば、我の給地を与えられよと死力を尽くして御異見あり 

全国を統一した今こそ、内政を充実させることが肝要である。外国と争い人命を失い兵糧を費やすことは暴挙である。和議を講じて貿易を広めることこそ、国を富ます道である。これまでの戦功に対して、大名武将に与える禄が足りないというなら、自分(秀長)の領地を削って与えよ、と死力を尽くして秀吉を諌めたといいます。


■秀長病死後の豊臣家崩壊

 作家の司馬遼太郎さんや堺屋太一さんが著書の中で述べられた通り、

豊臣秀長の死後、豊臣家にとって良いことは何一つ起こらなかった…

ことが、すべてを物語っています。秀吉が関白職に任官した天正13年(1585年)から、秀吉が病死する慶長3年(1598年)までの足掛け14年間について、豊臣政権にとってプラス要素を青字で、マイナス要素を赤字で表示しながら、時系列でその盛衰を検証しました。

秀長病死から豊臣政権崩壊までの道筋



■家康・利休・古渓宗陳との人脈

 天正16年(1588年)3月、家康は徳川家の聚楽第屋敷建設のため、材木の運搬を三河一向宗門徒に申し付けます。これに応じた三河大坊主七寺は門徒たちに課役を命じますが、門徒たちは課役過重を理由に材木の運搬を拒否します。困った家康は、政事に長けた秀長を頼ります。

 秀長は、一向宗の本拠である本願寺を間に立たせ、三河門徒たちを説得させました。これにより一旦は納得した門徒たちでしたが、本願寺が大坊主衆(高僧)への課役を免除し、末端の下坊主と門徒衆にのみに課役を命じたことがわかると、再び彼らは課役を拒否しました。これを聞いた秀長は、課役を免除する代わりに上納金を門徒たちに納入させ、この銭を使って運搬業者に材木運搬を代行させることで見事に難題を解決しました。

 この年の9月初旬、家康秀長の居城である大和郡山城を訪問して、この時のことを感謝しています。

 秀長・利休の交流・協力関係についてはあまりにも有名ですが、この他に京都大徳寺の高僧で、その学識の高さに定評があった古渓宗陳との交流もありました。宗陳は寺院建立を巡って石田三成と対立したほどの有力な人物でした。彼は秀長の葬儀も取り仕切っており、死んだ秀長のことをこう評しました。


徳文武を兼ね、道君臣に合す

威あって猛からず あい然として仁有り