西軍総大将を担っていた毛利一族が、天下分け目の関ヶ原の戦いにおいてもっとがっちりとと団結していれば西軍が勝利していたはずであり、毛利家の東軍への内応を画策した吉川広家(1561~1625)は、この点において、およそ許しがたいひどい人物のように言われてきました。
しかし私は、彼ほど冷静に情勢判断をしていた人物はいないと評価しており、自己犠牲もいとわず毛利家を本当に守ったのは、この広家だったと考えています。
【略歴】
毛利一族の両川と言われた有名な吉川元春の三男として誕生しましたが、幼い頃からかなりのやんちゃ坊主(信長のようにカブキ者と呼ばれた)だったようで、元春を嘆かせ父から厳しい叱責をうけるほどでした。
彼が26歳の時、豊臣秀吉の九州征伐に従軍した父元春と長兄元長が、征伐の途中で相次いで病死したため、急遽吉川家の家督を継ぐことになります。28歳で宇喜多秀家の姉と結婚しますが、2年後に病死します。その後は毛利家の重鎮として宗家を良く支えたようで、秀吉からの評価も高かったようです。慶長の役(朝鮮出兵)では、落城寸前だった加藤清正を救援するという武功をあげました。
秀吉死後の関ヶ原の戦いでは、当初から徳川家康を全面的に支持しており、当主の毛利輝元に家康に味方するよう勧めますが、毛利家内の反対勢力に阻まれます。それでも合戦中に毛利家本体の大軍を率いる毛利秀元軍を終始動かさないように工作したため、家康の勝利に大きく貢献しました。しかし家康は、西軍総大将として振舞った輝元を許さず改易処分とし、代わりに広家に後の長州藩37万石を与えようとします。これに対し広家は家康にこういったそうです。
『私に対する御恩顧は後世まで決して忘れませんが、何卒毛利家という家名を残して戴きたく御願い申し上げます。この度のことは輝元の本意ではありません。輝元が心底人間が練れてなく分別がないのは、各々ご存知のことではないですか。輝元は今後、家康様に忠節を尽くしますから、どうかどうか毛利の名字を残して下さい。輝元が処罰されて自分だけが取り立てられては面目が立たないので、私にも輝元と同じ罰を与えて下さい。もし、有り難くも毛利の家を残していただけたなら、輝元はこの御恩を決して忘れません。千が一万が一、輝元が徳川に対して弓引くようなことがあれば、たとえ本家といえども、輝元の首を取って差し出す覚悟でございます』
結局家康は広家の願いを受け入れ、毛利家は37万石への減封のみで済みましたが、以後広家は毛利家内で肩身の狭い思いをしながら生き続ける羽目になりました。
【凡庸な当主輝元の限界を知っていた広家】
もし毛利家が関ヶ原で全面的に西軍に味方して勝利していたとしても、輝元・三成が天下あるいは豊臣家を支えていくことは無理であると、広家は最初からわかっていたものと想像します。
(参考リンク記事:毛利輝元・いつも中途半端だった西軍総大将 )
また、西軍勝利後に予想される石田三成を中核とした中央集権政策を核とする政権運営についても、到底困難であると判断しており、諸大名の多くが徳川家康の政権方針である地方分権政策を望んでいるという時代の流れを的確に読んでいたと考えます。
これに対して当主の輝元は、凡庸で天下を担う気概もない癖に、少しでも毛利家の勢力を拡大しようと、その場しのぎの手を打っていきます。広家が、せっかく黒田長政を通じて家康と約束(輝元の西軍不参戦を条件に毛利家本領安堵)していたのに、関ヶ原の前後に四国の東軍勢力の領国を攻略しようとしたのです。これでは、家康も本領安堵というわけにはいきませんね。このように広家は終始輝元の尻拭いに徹した生涯だったのです。
【2年半で病死した愛妻に対する想い】
結婚して僅か2年と半年で病死した正室(容光院・宇喜多秀家の姉)を、広家は大切にしており、非常に愛していたと言います。この女性は、一旦秀吉の養女となってから広家に嫁いだようで、秀吉と当時豊臣家において毛利家の取り次ぎ役であった黒田官兵衛孝高のコンビによる仲介でした。この縁で広家は孝高と親しくなり、後に孝高の嫡子である黒田長政(関ヶ原での盟友)とも仲良くなったようです。
秀吉、家康、あるいは毛利家から幾度も再婚の紹介や勧めがあったようですが、側室を置くに留め、ついに広家は再婚しなかったそうです。義弟にあたる宇喜多秀家が、関ヶ原敗戦後に八丈島流罪になった際にも、密かに秀家を援助したものと思われます。
■自身を犠牲にしてまで毛利を守ろうとした広家でしたが、晩年は毛利家において不遇であったといいます。しかし私は、彼ははたで見るよりずっと幸福だったような気がします。自らの信念に従った生涯を後悔することなく、今は亡き妻の菩提を静かに弔った、満ち足りた余生だったと思います。