信長・秀吉・家康 徹底比較 ⑥ストレス耐性 | 福永英樹ブログ

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⑥ストレス耐性(行動特性による信長・秀吉・家康の徹底比較)


6回シリーズ最後の行動特性であるストレス耐性が発揮されるのは、一般的に窮地に見舞われた時や、不安定な状況が続いた時といいます。持ち味の大きく異なる三英傑のそれとは、一体どうだったのでしょうか? 



【織田信長】


 正直、この人にストレスなんて無かったのでは、と思わせるのが信長です。

 まず、これほど自身の価値観が明確で強固な人も珍しかったですから、人と比較したり、人に惑わされることがまったくなく、「人は人、俺は俺」というふうな完全なマイペースを、生涯保持し続けることが出来た人物であったと思います。

 さらに秀吉家康と比較すると、意外や一番冷めた人物のようにも思います。彼の生涯をたどると、あまり人間というもの(自分にも他人にも)に期待していないように感じます。人が未来に向かって積み重ねる信頼希望といったものより、今一瞬の己の感性のきらめきにかけているようなイメージです。はっきり言えば、ちょっと根暗かもしれません。


 個人的に私が信長最大の窮地であった時と考えるのは、元亀元年(1570年)4月の浅井長政(妹婿)の裏切りから始まった、将軍足利義昭による「信長打倒包囲網」による、織田・徳川連合軍の四面楚歌状態です。6月下旬に姉川で浅井・朝倉連合軍に一度勝利したものの、8月以降は、石山本願寺(摂津国)、三好三人衆(摂津国)、比叡山延暦寺(近江国)、長島一向一揆(伊勢国)、さらに息を吹き返した浅井(近江国)・朝倉(越前国)連合軍に包囲され、正に絶対絶命の窮地に立たされました。

 しかし信長は、秀吉に命じて彼らの連絡を遮断するために陸海路を封鎖させたり、浅井氏重臣への調略(裏切りへの働きかけ)を成功させたりなど、驚異の粘り強さを見せました。さらに有名な比叡山の焼討ちにより浅井・朝倉側を孤立させ、また武田信玄の幸運な病死とも重なり、遂に義昭を追放し足利幕府を滅亡させました。


 この時もし信長ストレスがあったとしても、すべて彼の頭に描く「天下布武により合理的な世の姿を実現する」ためのものでしたから、きっと「そのために死ねるなら本望」くらいにドライに割り切っていたと思います。 本能寺の変で最後を迎えた時の「是非に及ばず」という彼の言葉が示す通り、生に執着するようなイメージが、私にはまったく信長に見ることができません




【豊臣秀吉】


 今回の企画で何回か申し上げた通り、秀吉は三英傑の中で唯一庶民層から這い上がってきた人物です。

 かつて村長(小土豪)であった秀吉の実父木下弥右衛門昌吉は、領主からの無理難題と戦場における負傷により、廃人同然になった末の不幸な死に至ります。この事実を深く心に刻んだ少年時代の秀吉は、持ち前の生命力と情熱で、凄まじいまでの上昇への道を指向していきます。信長に仕官した時はまず侍大将に、侍大将になれたら次は重臣に、重臣になれたら大名に、そして最後に、信長が横死したら天下人へと.、その都度目標設定していったのです。


 きっと自分が決めたその時点の最大の目標・目的のためなら、どんなことも我慢したことでしょう。信長家康なら到底できないようなことも、例えば目的のためならどんな人にも頭を下げたでしょうし、嫌な役目も自分から引き受けたことでしょう.。 ですから、独自の宗教政策に拘っていた信長や、いつも大義名分により動いていた家康のことなど、内心では非現実的な殿様育ちだと思っていたかもしれません。


 私は拙著において「秀吉には理念がなかった」と申しましたが、もし彼なりの理念(価値観)があったとすれば、こういうことではないでしょうか?


「人間社会とは動物の生存競争と同様に、限られた土地や食料を奪い合う闘いであり、弱肉強食による淘汰なんじゃ! 格差が生まれるのは自然なことであり、これが人間社会本来のメカニズムであり、これにより人間は成長して行くのじゃ!」


と。確かにこれは、人間というものの一面であることは間違えないと思います。

ただ、秀吉がこの国の頂点に立つようになると、これだけでは済まなくなりました。天下人として、世の人々のための政事(まつりごと)をいかにして遂行するのか。そのための本当の理念をもたなけらばならなくなったのです。

 弟秀長千利休が死んだ後の秀吉は、為政者としての自身の非力さにより、相当のストレスがあったものと思います。朝鮮出兵関白秀次粛清などは、どう考えても失政ですから…

 



【徳川家康】


 私の学生時代の恩師である小池榮一先生という方からの教えで、印象に残っている言葉があります。

「本質的な明るさとは、物事を長い目で見れるということ」

 この言葉に最も相応しい人物、それが家康です。


 公の事を優先し平和政権構築を願った彼の人生観、そして持ち前の前向きさと粘り強さは、いかなるストレスにも負けませんでした。彼の生涯をたどってみると、正に苦難と窮地の連続でした。



2歳:母親が父親に離縁され引き離される

6歳:織田家の人質になる

8歳:父親が家臣に殺害される。今川家の人質になる。

19歳:従っていた今川義元が信長に討たれる

23歳:三河一向一揆により家臣団が分断される

31歳:武田信玄に三方が原で惨敗する

38歳:信長の命令で妻と長男を殺害する

41歳:信長横死により急遽三河に逃れる

43歳:秀吉と小牧山において対決する

44歳:重臣の石川数正が秀吉に臣従する

45歳:秀吉に臣従する

49歳:秀吉に関東への転封を命じられる

59歳:関ヶ原の戦で勝利

74歳:豊臣家を滅亡させる



 まあ、これだけ苦難に満ちた生涯も珍しいですね。しかし家康は、これらをその都度、肥やしにし、あるいは教訓として次に繋げて行きました

 ストレスを未来への糧にした家康は、やはり戦国一のストレス耐性の持ち主に違いありませんね。




■全6回のこの企画に最後までお付き合いいただきまして、誠にありがとうございました。