④人材活用(行動特性による信長・秀吉・家康の徹底比較)
■三英傑は、どのような人材を、どんなふうに活用をして、組織運営をしていったのか? これは、3人それぞれの性格や好みが、最も現れている行動特性といえるでしょう。
【織田信長】
人間というものを決して表面的なレッテルだけで見ない柔軟な頭脳の持ち主であった信長の人材登用は、三英傑の中でも最も個性的で、バラエティに富んだ家臣団を形成しました。
身分家柄は元より、素性定かならぬ謎多き人物や、一度離反した人物であっても、有能であればどんどん登用して重用して行きました。
・柴田勝家:一度敵対し信長の弟(信行)についたこともあるが、翻意し謝罪の後に臣従
・丹羽長秀:家督相続権の無い次男であったが、信長が少年の頃から重用し近従に
・滝川一益:甲賀忍者説、伊勢国出身説など、素性が定かでなかったが抜擢される
・明智光秀:名門出身であったが落ちぶれ流浪後、足利義昭を信長に対面させた功を買われる
・羽柴秀吉:足軽出身でありながら、調略の実績をきっかけに抜擢し、重臣にまで昇進させる
これだけ一癖も二癖もある個性派集団を登用し、適材適所に配置して実績を上げさせたのですから、信長の人の特徴(長所)を見抜く眼力には、まったく頭がさがります。
さらに、この5人に多くの権限委譲(数万騎単位の各方面軍を指揮管理させる司令官にそれぞれ抜擢)をするという、スケールの大きい組織運営の手腕にも驚かされます。
ただし問題だったのは、信長は彼らを抜擢して利用するのは上手かったのですが、彼らとの人間関係(信頼関係)を維持していくことが苦手だったということです。
・足利義昭:将軍就任を援助したが、露骨に権限を奪ったため、逆に信長包囲網を構築され窮地に陥れられる。
・荒木村重:信長からの意志疎通不足により、義昭・毛利氏・石山本願寺等の勧誘を断れなかった。
・徳川家康:無実を訴えたにも拘らず息子を信長の命により自害させられ遺恨を残した。
・佐久間信盛:多くの旧功があったが、直近の業績が悪く、信長より追放処分命令を受ける。
・明智光秀:四国の長宗我部氏との同盟を信長に命じられ、光秀は期待に応えて同盟を結ぶが、長宗我部氏の勢力が拡大し始めると、信長は同盟したことを後悔し、密かに秀吉に命じて長宗我部氏と敵対する三好氏と結んでしまう。本能寺の変の直前に、丹羽長秀による四国征伐が開始される予定であったことが、光秀謀反の有力な理由とされる。
◎天才肌に有りがちな説明不足・誠意不足・表現力不足だったのでしょう。これがもし下級武士から這い上がってきた秀吉だったら、きっと一時だまくらかしてでも上手くやったに違いありませんね(笑)
【豊臣秀吉】
秀吉は良くも悪くも感情的な人物でしたから、本音では親族や子飼いの家臣をもっと登用したかったのかもしれません。特に、若い時から育てた武将に対しての可愛がりぶりは有名ですね。
例えば親族(姻戚)で子飼いだったこの二人は、
・加藤清正:豪勇でしたが、目立った大功もないのに30歳前にいきなり肥後半国20万石に加増
・福島正則:清正以上に可愛がられ朝鮮出兵の負担も少なく、尾張国24万石に加増
と言った具合に…
ただ秀吉は、下級武士から己の腕一本(実力)で天下人まで這い上がってきた人物です。反面では非常に厳しい現実主義者・能力主義者でした。
これが最も解りやすい形で現れているのが、実力者・功労者であった大名が病死したり戦死した直後における、その大名家の後継者の処遇です。父親がどんなに秀吉に貢献し、力量が高かったとしても、息子が凡庸か若年であれば、平気で大幅な減封を命じています。
・丹羽長秀(120万石)→丹羽長重(15万石)
・蒲生氏郷(92万石)→蒲生秀行(12万石)
・小早川隆景(37万石)→小早川秀秋(15万石・但し家康の計らいでこの減封は無効に)
◎秀吉らしい価値観ですが、これは彼が各大名家の相続権を自身の掌中にし、将来的に全国の隅々まで豊臣家の権力を及ぼしたいという、中央集権国家を目指していた証拠でもあります。
しかしこれは、諸大名を大いに不安な気持ちにしていたものと思われます。秀吉が病死する前から、家康に対する諸大名の期待が高まっていたのは、家康の武将としての力量の高さもありますが、この大名統制に対する基本姿勢にあったものと考えます。
【徳川家康】
家康の人材活用及び組織運営の特徴は、組織集団(家臣団)全体としての能力を重視していたことでしょう。従って、能力本位による登用や抜擢が、必ずしも最優先されない場合もあったと思われます。
古くからの譜代重臣ならではの集団としての結束度の高さや、あくまでも組織のルールを守りきるような、徳川家への忠誠心の高さなどを評価する、集団性重視・組織力重視の姿勢が窺われます。
さらにもう一つの特徴は、身内(親藩大名)に非常に厳しかったことです。
天下分け目の関ヶ原の戦の結果、家康は名実ともに天下人になりますが、徳川家の重臣たちに大盤振る舞いはしませんでした。最高でも井伊直政の18万石で、そのほとんどが10万石前後というケチケチぶりに彼等は泣かされました。逆に旧豊臣系の外様大名には大盤振る舞いをしました。
ただこれには、家康の思慮深い狙いがあったのです。
実は足利幕府も同じように、創設時に守護大名に広大な所領を与えざるを得ない状況でした。ただ後の家康の政策と異なっていたのは、彼らを中央政治に関与させたことです。特に八代義政の時の応仁の乱に繋がった原因は、足利幕府の世継ぎ争いに細川氏や山名氏などの有力守護大名に後見・援助を託したことでしたから、家康は大いにこれを教訓としたことでしょう。家康は、外様大名に多くの所領を与えても、西国に領地を集中させ、決して中央政治への関与はさせませんでした。
しかし外様大名にこれを納得させるためには、当然身内(譜代大名)には厳しくしなければなりません。
譜代大名には、後の大老・老中職に繋がる中央政治の閣僚という地位をもって、持ち回りの交代で関与させています。但し、権力を持たせる代わりに所領はあくまでも少なく抑えたのです。多くの所領を背景に、権力を誇示して政務に携われては、例え譜代といえども政治運営の大きな弊害になることを予期していたからです。
◎また家康は秀吉と異なり、大名の自治を一定程度尊重した地方分権国家を目指していましたので、必然的に大名個人よりも大名の家を尊重しなければなりませんでした。跡を継いだ大名の嫡子が、たとえボンクラであっても、余程の落ち度や悪行でもない限り所領を安堵するシステムは、265年の幕藩封建体制の維持には不可欠だったのです。