二代将軍徳川秀忠についての投稿記事(何事も徳川本位だった二代将軍 )で紹介させていただいた通り、徳川家康は鎖国政策には一切関与していませんでした。海外交易については、むしろ非常に熱心な政治家であり、彼が進めた朱印船貿易や糸割符貿易などは、諸外国との活発な外交を元に成り立っていました。
④外交政策・商業政策
豊臣秀吉の朝鮮出兵は、「軍功次第で領地を増やしてくれるのが主君で、そのために家臣は戦場での働きに励む」という、戦国時代の延長線上にある土地本位の価値観によるものといってよいでしょう。大名たちの欲望の矛先を、従来の土地獲得の指向に沿った海外の新領地征服に向けたのです。ところがこれは、ご承知の通り大失敗に終わりました。5万人の日本人兵員を失い、庶民階級は厳しい課役と課税により大変疲弊しました。リスクが高い割に、結局何も得るところがなかった秀吉の侵略政策は、慎重で平和主義者であった家康には、当然否定的なものであったことでしょう。
関ヶ原の戦の前年(1599年・秀吉病死により終戦した翌年)、家康は対馬国の宗氏を通じて、早速朝鮮国に和平を求める使者を出しています。
当然当初は拒絶されますが、朝鮮人の捕虜の送還など、粘り強く外交を継続しました。その努力の結果、家康が将軍になった年の翌年(1604年)、遂に朝鮮側の使者が、伏見にいる家康と会見しました。その3年後(1607年)、正式な朝鮮国使節が江戸に赴き、将軍徳川秀忠に講和国書を渡しました。
この後家康は、諸外国との交易を大いに盛んにしていくわけですが、何と言っても儒教を政権の礎に置いた家康のことです。あくまでも年貢(米)の安定的な徴収による政権財政基盤を基軸として考えていましたので、商行為そのものは二の次三の次で、内心は見下していたものと想像します。ただ、当時日本国内は、金銀の産出が世界でも稀にみる多さだったこともあり、これらを輸出することによるうまみ(利益に大きさ)も見逃せなかったということでしょう。
キリスト教については徐々に禁教・追放していく政策に切り替えていきましたが、何とか西洋南蛮を含めた交易の維持に尽力しました。布教や侵略の意欲の少なかったイギリスやオランダとの交易については、ウィリアム・アダムスを政治顧問に迎えたように、最後まで執着しています。
ただ国内の商業についての政策については、織田信長以来の自由な市場経済を家康も尊重したため、その後の江戸幕府も野放し状態を継続して行きました。儒教統治により商業を蔑視する方針ですから、ほうっておくしかなかったのですね。その後、商品経済の著しい発達により商業資本が台頭し、徐々に年貢(米)のみの幕府の財政は逼迫して行くわけですが、果たして家康はそこまで予想できたのでしょうか? また、熱心に進めた海外との外交通商が、まさか自分の息子(秀忠)や孫(家光)の代でほとんど消滅するとは、彼は予想していなかったのでしょうか?
南蛮(西洋)との交易活動が少しでも続けていれば、新たな情報や考え方の輸入により、国内の商業に対する政権の関与の仕方も、あるいは変わったものに成ったかもしれません。
■以上で、歴史の教訓に学んだ徳川家康の政策についての投稿記事は終了です。なぜ、ここまでしつこく紹介させていただいたのか? それは、家康が築いたこの江戸時代が現在の日本人に残した影響力が、あまりにも大きく、そして深いからです。そのお話は、また次に記事にさせていただきます。